見まはし、鮮やかなる和語に声を秘《ひそ》めつゝ、御頼み申上げ度き一儀あり。枉《ま》げて吾が寝泊りする処まで御足労賜はりてむやと、ひたすらに三拝九拝する様なり。すなはち心得たる体にて彼《か》の唐人に誘はれ行くに、港の入口、山腹の中途に聳え立つ南蛮寺の墓地に近く、薬草の花畑を繞《めぐ》らしたる一軒の番小舎あり。その中に山の如く積み上げたる藁の束を押し分けて、いと狭き落し戸より、真暗き石段を降り行けば、やがて美くしく造り飾りたる窖《あなぐら》に出でぬ。得も云はれず芳ばしき煙、夢の如く棚引き籠もれり。
其処までわれを誘ひ入れし若き唐人は、やがて吾を長崎随一の漢薬商、黄駝となん呼べる唐人に引合はせぬ。
其の黄駝といへる唐人、同じく三拝九拝して、われに頼み入る処を聞けば別儀に非ず。六神丸の秘方たる人胆《ひとぎも》の採取なり。男女二十歳以上三十歳までの生胆金二枚也。二十歳以下十五歳まで金三枚也。十五歳より七歳まで五枚也。七歳以下金十枚といふ話也。
黄駝は肥大、福相の唐人。恭しくわれに銀器の香煙を勧むるに、弁舌滑らかにして甘脂の如し。此の六神の秘方は江戸の公方、京都の禁裡の千金の御命を救ひ参らせむ為に、年々|相調《あひとゝの》へて献上仕るもの。虫螻《むしけら》と等しき下賤の者の生命《いのち》を以て、高貴の御命を延ばし参ゐらせむ事、決して不忠の道に非ず。貴殿の御武勇を以て此事を行ひ賜はらば一代の御栄燿《ごええう》、正に思ひのまゝなるべしと、言葉をつくして説き勧むるに、われ、香煙の芳香《にほひ》にや酔ひたりけむ。一議に及ばず承引《うけひ》きつ。其夜は其の花畑の下なる怪しき土室《あなぐら》にて雲烟、恍惚の境に遊び、天女の如き唐美人の妖術に夢の如く身を委せつ。
眼ざめ来れば、身は南蛮寺下の花畑の中に在り。茫々|乎《こ》として万事、皆夢の如し。わが曾て岳父御《しうとご》に誓ひし一生|不犯《ふぼん》の男の貞操は、かくして、あとかたも無く破れ了んぬ。
われ此時、あまりの浅ましさに心|挫《くじ》け、武士の身に生れながら、生胆《いきぎも》取りの営業《なりはひ》を請合ひし吾が身の今更におぞましく、情なく、長崎といふ町の恐ろしさをつく/″\と思ひ知りければ、今は片時も躊躇《ためら》ふ心地せず。そのまゝ南蛮寺を後にして、諏訪神社の石の鳥居にも背《そがひ》を向け、足に任せて早岐の方を志す。山々の段
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