、恐ろし気に身を震はして心を取直し居る体なり。
 傍の下役人左右より棒を構へ、声を揃へて大喝一声、
「踏めい……踏み居らぬか」
 と脅やかすに初花は忽ち顔色蒼白となりつ。そを懸命に踏み堪《こら》へて、左褄高々と紮《から》げ、脛《はぎ》白《しろ》き右足を擡《もた》げて、踏絵の面《おもて》に乗せむとせし一刹那、
「エイツ……」
 と一声、足軽の棒に遮り止められ、瞬く間に裲襠を剥ぎ取られて高手小手に縄をかけられつ。母《かゝ》しやま/\と悲鳴を揚げつゝ竹矢来の外へ引かれ行けば、並居る役人も其の後よりゾロ/\と引上げ行く模様《さま》、今日の調べはたゞ初花太夫一人の為めなりし体裁《ていたらく》なり。
 われ不審晴れやらず。思はず傍《かたはら》を顧るに派手なる浴衣着たる若者あり。われと同じき思ひにて茫然と役人衆の後姿を見送れる体《てい》なり。われ其の男に向ひて独言《ひとりごと》のやうに、
「絵を踏まむとせしものを、何故に切支丹なりとて縛《いまし》めけむ」
 とつぶやきしに彼《か》の若者、慌しく四周《あたり》を見まはし、首を縮め、舌を震はせつゝ教へけるやう、
「御不審こそ理《ことわり》なれ。彼《か》の初花楼の主人|甚十郎兵衛《じんじろべゑ》と申す者。吾家《わがや》には切支丹を信ずる者一人も候はずとて、役人衆に思はしき袖の下を遣はざりしより、彼《か》の様なる意地悪き仕向けを受けたるものに候。あはれ初花太夫は母御の病気を助け度さに身を売りしものにて、この長崎にても評判の親孝行の浪人者の娘に候。之《これ》に引比べて初花楼の主人甚十郎兵衛こそ日本一の愚者にて候へ。すこしばかりの賄賂《まひなひ》を吝《を》しみし御蔭にて憐れなる初花太夫は磔刑《はりつけ》か火焙《ひあぶ》りか。音に名高き初花楼も取潰しのほか候まじ」
 と声をひそめて眼をしばたゝきぬ。此の若者の言葉、生粋の長崎弁にて理解し難かりけれど、わが聞取り得たる処は、おほむね右の通りなりき。
 さて其|後《のち》、程もなく初花楼の初花太夫が稲佐の浜にて磔刑《はりつけ》になるとの噂、高まりければ、流石《さすが》の鬼畜の道に陥りたるわれも、余りの事に心動きつ。半信半疑のまゝ当日の模様を見物に行くに、時は春の末つ方、夏もまだきの晴れ渡りたる空の下、燕飛び交ふ稲佐の浜より、対岸《むかうぎし》の諏訪様のほとりまで、道といふ道、窓といふ窓、屋根といふ屋
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