いた話や、又は能の各曲が「いつ頃、誰の手によって出来たものである」というハッキリした記録が無いらしい事実なぞを考え合わせると、どうもそんな気がしてならない。
 能の作者は色々伝えられているようであるが、どれも彼《か》もが結び付けて伝えたらしい感じがする。且つ、義太夫なぞは、手を付けた三味線引きや、初めて興行された劇場の種類、初めて演出した俳優や人形使いの名前なぞと一所《いっしょ》に、作者の名前が演出の手法の上に大きな影響をするものと聞いたが、能ではそんな事は絶対に顧慮されない。従って能の作者の名前は時代と共に忘れられて行く。
 能の作者は、かくして結局、神秘的存在となって行くように思うのは私が無学だからであろうか。それとも思い做《な》しであろうか。
 いずれにしても私は自分の無学と共に確信している。能は作った[#「作った」に傍点]ものでない。自然と生れ出たものである。そうして事実上、生まれ出たものと同様の生命と進化力を持っている。進化の途中に在る色々な不完全さと、どこまで向上するかわからぬ溌溂さを持っている。
 能は日本民族最高の表現慾が生んだものに相違ない。作者の有無に拘《かか》わら
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