してみると、実に雑然として混沌たるものがある。乞食歌もあれば、お経文もある。純日本式の思想もあれば、支那、印度の思想も取り入れられている。装束の模様、彫刻の刀法、その他、何から何まで陳紛漢紛《ちんぷんかんぷん》のゴモクタ芸術であるが、それを純日本人式の芸術的表現力を以て、最高度に統一支配して、透きとおるほど切実に観る者、聴くものに迫って来る。そうした事実を尚深く遡って考えると、能が出来る迄には雅楽、幸若舞《こうわかまい》、田楽、何々舞、何々狂言なぞいう、能楽の前身とも云うべきものが非常に発達していたらしい。しかもそうした諸般の演出物は、或は芸術的の迷妄に陥り、又は民衆に媚びて堕落し、又は儀礼的に高踏し過ぎて、芸術的の迷妄や行き詰りに陥りつつも、何かしらより高尚な、より充実した……或るタマラナイ表現慾を満足させ得べき芸術……すなわち能を生み出すべく、生みの悩みを続けていたものらしい。
そのような慾求の中から生まれたものが能である事を信じたい。能は、こしらえたものでなく、出来たものである事を私は飽く迄も信じたい。
私は学者でないから、そのような事を如実に考証する力はないが、今日迄色々聞いた話や、又は能の各曲が「いつ頃、誰の手によって出来たものである」というハッキリした記録が無いらしい事実なぞを考え合わせると、どうもそんな気がしてならない。
能の作者は色々伝えられているようであるが、どれも彼《か》もが結び付けて伝えたらしい感じがする。且つ、義太夫なぞは、手を付けた三味線引きや、初めて興行された劇場の種類、初めて演出した俳優や人形使いの名前なぞと一所《いっしょ》に、作者の名前が演出の手法の上に大きな影響をするものと聞いたが、能ではそんな事は絶対に顧慮されない。従って能の作者の名前は時代と共に忘れられて行く。
能の作者は、かくして結局、神秘的存在となって行くように思うのは私が無学だからであろうか。それとも思い做《な》しであろうか。
いずれにしても私は自分の無学と共に確信している。能は作った[#「作った」に傍点]ものでない。自然と生れ出たものである。そうして事実上、生まれ出たものと同様の生命と進化力を持っている。進化の途中に在る色々な不完全さと、どこまで向上するかわからぬ溌溂さを持っている。
能は日本民族最高の表現慾が生んだものに相違ない。作者の有無に拘《かか》わら
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