て、慎重に研究しては直し、直しては研究しつつ、一生を終る。そのあとを第三代のCが引き受けて、やはり同じ仕事を繰り返しつつ、その彫刻の価値を益々向上させて死ぬ。一方に、BもCも手を入れる気にならぬような、つまらないものは、そのままに残って、第四代のDに渡る。
 こうして代を重ねて行くうちに、第一代のAが作った数千の彫刻の中で、芸術的価値の高いものは益々手を入れられてよくなるし、手を入れる張合いのないようなものは、いつまでも放ったらかされて、忘れられてしまう。遂には廃棄せられて、毀《こわ》れてしまう。すなわち現世に存在する彫刻の数が減って行くのであるが、そんな事は、些《すこ》しも気にかけられずに益々よいものを良くして悪いものを棄てて行こうとする。最も芸術的に高潮した作品が一つでも残れば……という考えで進んで行く。
 これは「減って行く進化の形式」であるが、これと正反対の「殖えて行く進化の形式」を執《と》る世界一般の芸術も、つまるところ同じ所に行きつくのであるまいか……只、その途中に於て、時間的、空間的に恐ろしく大きな無駄をする事は明らかな道理で、能のように減って行く式の進化の方法を執る方が遥かに有利ではあるまいか……芸術的に高潮して行く度合いが何層倍か早くはあるまいかと考えられる。従って世界中でただ独り? そうした形式で進化して来た能は、つまるところ世界中で最高度に洗練された芸術である。そうして常にその時代の芸術と格段な距離を作ってトップを切り、且つこれをリードして行く芸術であるという三段論法が大掴みながら考えられる。
 こうした芸術進化の二方式の優劣論は暫くお預りとして、事実「能」は斯様《かよう》な進化の方法を非常な努力と自信の下に執って来た、世界に稀な芸術である。しかもそうした進化の方法の有利さを実際に証明しつつあり、且つ将来に於て益々証明せんとしている。云わば吾等日本民族が、先祖代々から、子々孫々に到るまで、総がかりで完成すべく努めている綜合芸術のエッセンスであろう。
 ヘブライ文化が基督《キリスト》教を、支那文化が儒教を、印度文化が仏教をそれぞれ数千年がかりで生んだ。その通りに何千年か、何万年か生存すべき日本民族の一代がかりで能を完成しつつある。酔い易い日本民族が、終始一貫した努力を払って……。

     能楽成立以前

 能の曲の内容をよくよく翫味《がんみ》
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