能とは何か
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)序《ついで》に

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一番|捷径《しょうけい》

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 二三年前の事、或る若いエスペランチストが私の処へ遊びに来ました序《ついで》に、瑞西《スイス》とかのエスペラントの雑誌へ「能」の事を投稿したいから、話してくれないかと頼みました。ところが生憎《あいにく》、私は能というものを外国人に紹介する程の頭も学問も持合わせておりません。東京で行われる一流の能さえもあまり見た事がないくらいの貧弱な一ファンに過ぎないのですから、そんな大それた話は出来ないと云ってあやまりましたら、それなら概念だけでもいいから、質問に応じてくれ。それを参考にして論文を書いて見るから……とナカナカ頑強で熱心なのです。そこで私は大胆にも承知をしまして、その青年の質問に答えたのですが、その質問が又、意外に組織立っているのに些《すくな》からず驚かされた事でした。しかもその青年は私の答えを一々速記して日本文に直しておりましたので、その原稿を程経てから私の留守中に持って来て「閑な時に見てくれ」と云いおいて帰って行きました。
 ところがその青年は、それっ切りパッタリと来なくなりました。住所が分らなくなったばかりでなく、年賀状も来なくなりましたので、どうしたのかと思っておりますと、この頃の人の噂に、その青年は深刻な左傾運動に関係して外国に放逐されたとの事で私は余りの事に茫然となった事でした。そうして一人の頭のいい、情熱の深い友達を失った事を心から悲しんだ事でした。
 この原稿はその青年の生き形見で、ほんの処々筆を入ただけです。その青年の頭のよさと、私の無学さとが到る処に曝露している事と思いますが、却《かえ》ってそうした点が一種の興味と共に何かの御参考になりはしまいかと思いまして編輯者のお手許に差出す事に致しました。一つにはその青年の思い出を葬り去るに忍びない私の或る気持ちが、こんな決心を敢《あえ》てさしたのかも知れませぬけれども……。
 長々しい私事を前置きに致しましたことを謹んでお詫び致します。

     外人の能楽ファン

「能とは何ぞや」という標題は大き過ぎて気がひける。併《しか》
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