なかった。それよりも叔父に買ってもらった古い洋服と、帽子と靴が、もの珍らしくて嬉しい位の事であった。
叔父の店は、今までいた貧民窟から半里ばかり距《へだた》ったF市の中央《まんなか》の株式取引所の前にあった。両隣りとソックリの貸事務所になっている北向きの二間半|間口《まぐち》で、表に「H株式取引所員……※[#「ユ−一」、屋号を示す記号、273−2]善《かねぜん》……児島良平……電話四四〇三番」と彫り込んだ緑青《ろくしょう》だらけの真鍮看板を掛けて、入口の硝子扉《ガラスど》にも同じ文句を剥《は》げチョロケた金箔で貼り出していた。私は叔父がこんな近い処に住んでいようとは夢にも思わなかったので、子供心に不思議に思いながら叔父に跟《つ》いて中に這入ると、上り口は半坪ばかりのタタキで、あと十畳ばかりの板の間に穴だらけのリノリウムを敷いて、天井には煤《すす》ぼけた雲母紙《うんもし》が貼ってあった。その往来に向った窓の処に叔父の机と廻転椅子。その右手の壁に株の相場を書いたボールド。その又右手に電話機。その反対側の向い合った白壁には各地の米の相場を見せる黒板。汽車の時間表。メクリ暦《ごよみ》なぞ……。その下に帳簿方と場況見《ばきょうみ》と二人の店員の机が差し向いになっていた。
しかし、そんなものの中《うち》で立派だな……と思ったものは一つもなかった。すべてが現在の通りにドス黒くて、ホコリだらけで、汚ならしかった。ただ入口の正面の壁に並んだ店員の帽子と羽織の間から覗いている一枚の美人画だけが新しくて綺麗に見えているだけであった。その美人画は大東汽船会社のポスターで、十七八の島田|髷《まげ》の少女がこっち向きに丸|卓子《テーブル》に凭《も》たれているところであったが、その肌の色や肉付きは云うまでもなく、髪毛《かみのけ》の一すじ一すじから、花簪《はなかんざし》ビラビラや、華やかな振袖の模様や、丸|卓子《テーブル》の光沢に反映《うつ》っている石竹《せきちく》色の指の爪まで、本物かと思われるくらい浮き浮きと描かれていた。瓜ざね顔の上品な生え際と可愛らしい腮《あご》。ポーッとした眉。涼しい眼。白い高い鼻。そうして今にも……あたしは、あなたが大好きよ……と云い出しそうに微笑を含んだ口元までも、イキナリ吸い付きたいくらい美しかった。
私はそれまでに、こんなポスターを何枚見たか知れなかったのだ
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