けど、この時ばかりは何故かしら特別のような気がした。……今から思うとこの時が私の思春期に入り初めで、同時にこの時こそ生涯の呪われ初めであったかも知れない。ちょうど昔の伝説の美しい悪魔から霊魂《たましい》を吸い取られる時のように、何ともいえず胸がドキドキして、顔がポッポとなって、気まりが悪るくてしようがなかったので、吾れ知らずうつむきながらソーッと上目《うわめ》づかいに見ていたように思う。
しかし叔父は、そんな事には気付かなかったらしく、グングンと私の手を引っぱって電話機の横の扉《と》を開くと、その外にある狭い板張りの横手から暗い階段を昇って、店の真上に在る二階に出た。そこは一方が押入れになっている天井の低い八畳位の北向きの室《へや》で、取引所前の往来を見下した高さ四尺位の横一文字の一方窓に、真赤に錆びた鉄の棒と磨硝子《すりガラス》の障子が並んでいたが、そこからさし込む往来の照り返しで、室の中は息苦しい程蒸し暑かった。真黒い天井からブラ下がった十|燭《しょく》の電球は蠅《はえ》の糞《ふん》で白茶気《しらちゃけ》ていた。その下の畳はブクブクに膨れて、何ともいえない噎《む》せっぽい悪臭を放っていた。左右の壁や、襖《ふすま》や、磨硝子の窓には、青や赤のインキだの、鉛筆だの筆だので、共同便所ソックリの醜怪な楽書きが、戦争みたいに押し合いヘシ合いかき散らしてあった。
叔父は窓をあけてホコリ臭い風を入れた。それから押入れを一パイに開いて、そこに投げ込んである二三枚のボロ夜具だの、蚊帳《かや》だの、針金で鉢巻をした大きな瀬戸火鉢だの、古い新聞紙や古電球なぞをジロジロ見まわしているようであったが、やがて、今までとは丸で違った、底意地の悪い声を出しながら私をふり返った。
「……いいか……貴様は今夜からここで、店の帳簿方と一所に寝るんだぞ。蒲団はあとから俥屋《くるまや》が持って来る。貴様のオヤジ[#「オヤジ」に傍点]のだけれども消毒してあるから大丈夫だ。虱《しらみ》なんぞ一匹も居ない筈だ。便所はこの階段を降りると突き当りにある。便所の向うの扉《と》を開くと隣りの店に出るから気をつけろ。……貴様は夜中に寝ぼけたり、小便を垂れたりしはしまいナ」
私は黙ってうなずいた。けれども、それと一緒に、今の今まで、あたたかい親切な人間とばかり見えていた叔父が、急に鉄のポストみたいに冷たい態度にかわ
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