眼を瞠《みは》らせられたのであった。……そう云い云い又も一杯傾けて、舌なめずりをしている叔父の横顔には、
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 ……お前が何もかも知っている事を俺もよく知っているのだ。しかし俺はもう何とも云わない。伊奈子はお前の好き自由にしていい……。
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 という意味の表情が、力なくほのめいていたからであった。……のみならず、その叔父独得の陽気な響きを喪った声の中には、今までにない淋しい……如何にも親身《しんみ》の叔父らしい響さえ籠《こも》っていた。そうして、そう思って見れば見るほど、叔父の横顔には、今までの悪魔らしい感じがなくなっているのに気が付いて来た。この夏時分に比べると、驚くほど青白くなっている頬や瞼には、ヨボヨボの老人に見るようなタルミさえ出来ているのであった。
 しかし、それかといって今更のように叔父を憐れむ気には毛頭なれない私であった。すぐに、もとの私に帰ると同時に、一種の冷たい微笑が湧いて来るのを押え付けながら、トボトボと店を出て行く叔父を見送って、平生《いつも》よりイクラカ叮嚀《ていねい》に頭を下げただけであった。
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 ……面白いな……まるでお伽噺《とぎばなし》か何ぞのように、小さな美しい悪魔が、大きな醜い悪魔をやっつけて[#「やっつけて」に傍点]、只の人間になるまで去勢してしまっている。しかも、あんまりやっつけ[#「やっつけ」に傍点]過ぎたために、相手は平々凡々のお人好しを通り越して、何もかも覚りつくした、諦め切った人間になってしまっている。叔父は彼女に対する愛着心を消耗しつくすと同時に、彼女の計画のすべてを覚ってしまいながら、それをどうする事も出来ない立場にいる事をまで自覚してしまっている。
 ……しかし……こうなったら却《かえ》って彼女のために危険な事になりはしまいか。少くとも彼女が叔父に対して警戒している方向は、飛んでもない見当違いになってしまっているではないか……。
 ……面白いな……この結末がどうなるか……。
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 と心の中《うち》で楽しみながら……。

 その月の中頃の、或る天気のいい日曜の朝早くであった。伊奈子は大急ぎの口調で私に電話をかけたが、それは叔父が三日ばかりの予定で、その朝早く大阪に発ったので、これからすぐにF市から二十里ばかりの処にあるU岳の温泉に行
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