眼を醒ますと間もなく、何ともいえない上品な香水の匂いが、悩ましい女の体臭と一緒にムーッと迫って来たので、一寸《ちょっと》の間《ま》狐に抓《つま》まれたような気持ちになった。そうしてよく眼をこすって見ると、私の枕元の暗い電燈の下に、青い天鵞絨《ビロード》のコートと、黒狐の襟巻に包まれた彼女が、化粧を凝《こ》らした顔と、雪白のマンショーを浮き出さして、チンマリと坐っているのであった。
「オホホホホホホホ」
「……………」

       ×          ×          ×

 彼女は私を一気に、空想の世界から現実の世界へ引っぱり出してしまった。私は、それから後《のち》、殆んど毎日のように電話をかけて来る彼女の命令のまにまに、店を仕舞《しま》うとすぐに身じまいをして、隣家《となり》の裏口から抜け出して、そこいらで待ち合わせている彼女と肩を並べながら夜の街々を散歩するようになった。生れて初めての背広服を派手な格子縞で作らせられたのはその時であった。カンガルーとエナメルの高価《たか》い靴を買わされたのも同時であった。帽子もゴルフ用の鳥打ちや、ビバや、お釜帽《かまぼう》を次から次に冠らせられた。それにつれて本箱の抽斗《ひきだ》しに突込んだままになっていた皺苦茶の紙幣や銀貨の棒がズンズンと減って行った。
 私と彼女とが同じ家に這入る事は殆んど稀であった。彼女は、F市内の到る処に在る密会の場所を知っているかのように、いつも意外千万な処へ私を引っぱり込むことが次第に私を驚かし初めた。牡蠣《かき》船だの、支那料理屋の二階だの、海岸の空《あき》別荘だの、煙草屋の裏座敷だの……その中《うち》でも特に舌を捲いたのは、まだ明るいうちに或る大きな私立病院の玄関から、見舞人のような態度で上り込んで、奥の方に空《あ》いていた特等病室の藁蒲団の上に落ち付いた時であった。その時に彼女は今までにない高い情熱に駆られたらしく、蝋《ろう》のように青褪めた中から潤んだ眼を一パイに見開きつつ、白い歯を誇らし気に光らして見せたのであったが、そうした彼女の嬌態《きょうたい》を、ポケットに両手を突込んだまま見下しているうちに、私はフト、形容の出来ないヒイヤリとした気持ちになった。
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 ……この女は、こうした思い切った遊戯の刺戟によって、自分自身の美をあらゆる深刻な色彩に燃え立たせ得る術
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