日分……」
「……ヨシ……」
 ガチャリと電話が切れたと思うと、やがて船腹《ふなばら》を震撼《しんかん》する波濤《なみ》の轟音《おと》が急に高まって来た。タッタ二|節《ノット》の違いでも波が倍以上大きくなったような気がする。又実際、船体のコタエ方は倍以上違って来るので、石炭の消費量でもチットやソットの違いじゃない。
 そのうちに高緯度の癖で、いつとなく日ばボンヤリと暮れて、地獄座のフットライト見たいなオーロラがダラダラと船尾《スターン》にブラ下った。その下の波の大山脈の重なりを、夜通しがかりで白泡《しらあわ》を噛《か》みながら昇ったり降ったり、シーソーを繰り返して翌《あく》る朝の薄明りになってみると、不思議な事に船体《ふね》は、昨日《きのう》の朝の通り聖《セント》エリアスとフェア・ウェザーの中間に船首を固定さしている。昨日《きのう》から固定していたんだか、夜の間に逆戻りしたんだかわからない。
「どうしたんだ」
「シッカリしろ」
 とか何とか運転手と文句を云い合っているうちに、昨日《きのう》の朝の通りの白い太陽がギラギラと出て来た。空気が乾燥しているから岸の形がハッキリしている。山腹を這《は》う蟻《あり》の影法師まで見えそうである。
 流石《さすが》に沈着な船長もコレには少々驚いたらしい。船橋《ブリッジ》に上《のぼ》って、珍らしそうに白い太陽を凝視している。その横に一等運転手がカラも附けないまま寒そうに震えている。
「逆戻りしたんだな」
「イヤ。波に押し戻されているんです。十八|節《ノット》の速力《スピード》がこの波じゃチットモ利かないんです」
「そんな馬鹿な事が……」
「いや実際なんです。去年の波とはタチが違うらしいんです」
「おんなじ波じゃないか」
「イヤ。たしかに違います」
 一等運転手と船長がコンナ下らない議論をしているところへ、俺は危険を冒《おか》して梯子《ラダ》を這い登って行った。船長は、真向いの聖《セント》エリアスの岩山に負けない位のゴツゴツした表情で云った。
「モウ……スピードは出ないな。機関長《おやかた》……」
「出ませんな。安全弁《バルブ》が夜通しブウブウいっていたんですから」
「……弱ったな……」
 この船長が、コンナ弱音を吐いたのを俺はこの時に初めて聞いた。
「……妙ですねえ。今度ばかりは……変テコな事ばかりお眼にかかるじゃないですか」
「あの小僧を乗せたせいじゃないかな。チョットでも……」
 と一等運転手がヨロケながら独言《ひとりごと》のように云った。蒼白《あおじろ》い、剛《こ》わばった顔をして……俺は強く咳払《せきばら》いをした。
「エヘン。そうかも知れねえ。しかし最早《もう》船には居ねえ筈だからな」
 船長は何も云わなかった。苦い苦い顔をしたまま十八倍の双眼鏡を聖《セント》エリアスに向けた。
 三人はそのまま気拙《きまず》い思いをして別れたが、それから第三日目の朝になっても、依然としてフェア・ウェザーとセント・エリアスが真正面に見えた時には、流石《さすが》の俺も、ジイイーンと痺《しび》れ上るような不思議を、脳髄の中心に感じた。同時に何ともいえない神秘的な気持になって、胸がドキドキした事を告白する。自分の魂が、船体と一所に、どうにもならない不可思議な力にガッシリと掴《つか》まれているような気がしたからだ。

 石のように固《こわ》ばった俺と、一等運転手《チーフメート》と、船長の顔がモウ一度、船長室でブツカリ合った。
「ここいらを北上する暖流の速力が変ったっていう報告はまだ聞きませんよ」
 運転手が裁判の被告みたような口調で船長に云った。船長が他所事《よそごと》のようにネービー・カットの煙を吹いた。
「ムフムフ。変ったにしたところが、一時間十八|節《ノット》の船を押し流すような海流が、地球表面上に発生し得《う》る理由はないてや」
 と飽くまでも科学者らしく嘯《うそぶ》いた。俺もエンチャントレスに火を付けながら首肯《うなず》いた。
「とにかく俺のせいじゃないよ。石炭はたしかに減っているんだからな」
 一等運転手《チーフメート》も眼を白くしてコックリと首肯《うなず》いた。同時に一層青白くなりながら白い唇を動かした。
「……何か……あの小僧の持物でも……船に……残っているんじゃ……ないでしょうか」
 船長は片目をつむって、唇を歪《ゆが》めて冷笑した。しかし一等運転手は真顔《まがお》になって、真剣に腰を屈《かが》めながら、船長室内のそこ、ここを覗《のぞ》きまわり初めた。おしまいには船長と俺が腰をかけている寝台《ねだい》までも抱え上げて覗いたが、寝台の下には独逸《ドイツ》や仏蘭西《フランス》の科学雑誌が一パイに詰まっているキリであった。ボーイのスリッパさえ発見出来なかった。
 とうとう船全体が、動かす事の出来ない迷信に囚《とら》われて、スッカリ震え上がらせられてしまった。乗組員の眼付《めつき》は皆《みんな》オドオドと震えていた。
 ……船が動かない……S・O・S小僧の祟《たた》りだ……。
 晴れ渡った青い青い空、澄み渡った太陽。静かな、切れるような冷《つ》めたい風の中で、碧玉《へきぎょく》のような大濤《おおなみ》に揺られながらの海難……。
 ……行けども行けども涯《は》てしのない海難……S・O・Sの無電を打つ理由もない海難……理由のわからない……前代未聞の海難……。
「サアサア。みんな文句云うところアねえ、在りったけの石炭《すみ》を悉皆《みんな》、汽鑵《かま》にブチ込むんだ。それで足りなけあ船底《ダンブロ》の木綿の巻荷《ロール》をブチ込むんだ。それでも足りなけあ俺から先に汽鑵《かま》の中へ匍《は》い込むんだ。ハハハ。サアサア。みんな石炭《すみ》運びだ石炭《すみ》運びだ……」
 事実石炭は最早《もう》、残りがイクラも無かったのだ。横浜《はま》で積込《つみこ》んだ時の苦労を逆に繰返して、飛んでもない遠方から掘り出すようにしいしい、機関室へ拾い集めるのであったが、その作業を初めると間もなく、残炭《のこり》を下検分《したみ》に廻わった二等機関士のチャプリン髭《ひげ》が、俺の部屋へ転がり込んで来た。
「……タ……大変です。S・O・Sの死骸が見つかりました」
「ナニ。S・O・S……伊那の死骸がか……」
「エエ。そうなんです……ああ驚いた。ちょっとその水を一パイ。ああたまらねえ」
「サア飲め。意気地無し。どこに在ったんだ」
「ああ驚いちゃった。料理部屋の背面《うしろ》なんです。あすこの石炭《すみ》の山の上にエムプレス・チャイナの青い金モール服を着たまんま半腐りの骸骨になって寝ていたんです。イガ栗頭の恰好《かっこう》があいつに違いないんですが」
「骸骨……?……」
「ええ。あそこは鉄管《パイプ》がゴチャゴチャしていてステキに暑いもんですから腐りが早かったんでしょう。白い歯を一パイに剥《む》き出してね。蛆《うじ》一匹居なかったんですが……随分臭かったんですよ」
 俺は黙って鉄梯子《てつばしご》を昇って、中甲板《ちゅうかんぱん》の水夫部屋に来た。入口に掴《つか》まって仁王立《におうだ》ちになったまま大声で怒鳴った。
「おおい。兼公《かねこう》居るかア。出歯《でっぱ》の兼公……生首《なまくび》の兼公は居ねえかア……」

「おおおオ――……」
 と隅ッコの暗い寝台棚《かいこだな》から、寝ぼけたらしい声がした。
「誰だあ……」
「おれだあ……」
「おお。地獄の親方さんか。これあどうも……」
「済まねえが一寸《ちょっと》、顔を貸してくれい」
「ウワアア。とうとう見付かったかね」
「シッ……」
 と眼顔で制しながら兼公を水夫食堂へ誘い込んだ。天井の綱にブラ下りながら兼に金口煙草《きんぐち》を一本|呉《く》れた。兼はしきりに頭を掻《か》いた。
「どうも横浜《はま》じゃ、警察が怖《こ》わーがしたからね。つい秘密《ないしょ》にしちゃったんで……」
「石炭《すみ》運びの途中で殺《や》ったんか」
「図星《ずぼし》なんで……ヘエ。もっとも最初《はじめ》から殺《や》る気じゃなかったんで、みんながあの小僧は女だ女だって云いましたからね。仕事にかからせる前にチョット調べて見る気であすこに引っぱり込んだんで……ヘエ……」
「馬鹿野郎……そんで女だったのか」
「それがわからねえんで……あすこへ捻《ね》じ伏せて洋服を引んめくりにかかったら恐ろしく暴れやがってね」
「当前《あたりまえ》だあ……それからどうした」
「イキナリ飛び付きやがって、ここん処《とこ》をコレ……コンナに喰《く》い切りやがったんで……」
 兼は菜葉服《なっぱふく》とメリヤスの襯衣《シャツ》をまくって、左腕の力瘤《ちからこぶ》の上の繃帯《ほうたい》を出して見せた。
「まだ腫《は》れてんで……ズキズキしてるんですがね……恐ろしいもんですね」
「間抜けめえ。そん時に手前《てめえ》裸体《はだか》だったのか」
「エヘヘヘヘヘ」
「変な笑い方をしるねえ。それからどうした」
「わっしゃカーッとなっちゃってね。コイツ奴《め》、降りるといったって他の船へ乗れあ、又、災難《わざ》をしやがるんだからここで片付けた方が早道だ。男だか女だか殺《おと》してから検査《しらべ》た方が早道だと思っちゃったところへ、血だらけの口をしたS・O・Sの野郎が、私の横ッ面《つら》へ喰い切った肉をパッと吹っかけて「悪魔」とか何とか悪態を吐《つ》きやがったんで……手前《てめえ》の悪魔は棚へ上げやがってね。……おまけに後で船長《おとっさん》に告訴《いいつ》けてやるから……とか何とか吐《ぬ》かしやがったんでイヨイヨ助けておけないと思って、首ッ玉をギューッと……まったくなんで……ヘエ……」
「非道《ひど》い事をするなあ。そんで女だったかい」
「……それがその……野郎なんで……」
「プッ。馬鹿だなあ。それからどうしたい」
「それっきりでさ。……ウンザリしちゃって放《ほ》ったらかして来ちゃったんです」
「何故《なぜ》海に投《ほう》り込まねえ」
「それが誰にも見つからねえように放り込みたかったんで……親方や機関室《ダンブロ》の兄貴《あにき》達にも申し訳ねえし、おまけに上海《シャンハイ》で、あっしが談判に行った時に船長《おやじ》が入歯をガチガチさして、こんな事を云ったんです。あの小僧をタタキ殺すのに文句はないが……」
「チョット待ってくれ。たたき殺すのに文句はないって云ったんだね」
「そうなんで……しかし死骸は勿論、髪の毛一本でも外へ持ち出したら只《ただ》はおかないぞッ……てね。そう云って船長《おやじ》に白眼《にら》み付けられた時にゃ、あっしゃゾッとしましたぜ。あんな気味の悪い面《つら》ア初めてお眼にかかったんで……ヘエ……まったくなんで……」
「フーム。妙な事を云ったもんだな」
「そう云ったんで……何だかわからねえけども……万一見付かって首になっちゃ詰まらねえ。事によるとあの二|挺《ちょう》のパチンコで穴を明《あ》けられちゃ叶《かな》わねえと思って、そのまんまにしといたんです。まったくなんです」
「案外意気地がねえんだな……手前《てめえ》は……」
「まったくなんで……それからっていうものあの死骸の事が気になって気になって今日は運び出そうか、明日《あす》は片付けようかと思ううちに、だんだん船にケチが附いて来るでしょう……死骸は腐って手が付けられなくなって来るし、わっしゃもう少しで病気になるところだったんで……もう懲《こ》り懲《ご》りしました。どうぞ勘弁《かんべん》しておくんなさい。あやまっても追付《おっつ》くめえけんど……」
「ハハハ。そんな事《こた》アもうどうでもいいんだ。今日は文句はねえ。手前《てめえ》行って大ビラであの死骸《コツ》を片付けて来い。船長《おやじ》には俺が行って話を付けてやる」
「ヘエッ。本当ですかい親方ア」
「同じ事を二度たあ云わねえ」
「……ありが……ありがとう御座《ござ》んす。すぐに片付けます。……ああサッパリした」
「馬鹿野郎……片付けてからサッパリしろ」
 兼はS・O・Sの金モールの骸骨《コツ》を胴中《どうなか》か
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