。
船を包む霧は益々《ますます》深く暗くなって来た。
モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千|哩《マイル》近くは来ている。ソロソロ舵《かじ》をE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈《はげ》しいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八|浬《ノット》の経済速度《エコノミカルスピード》の半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千|噸《トン》の巨体が蟻《あり》の匍《は》うようにしか進まなかった。
「オイ。どこいらだろうな」
「そうさなあ。どこいらかなあ」
といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。
「汽笛《ふえ》を鳴らすと矢鱈《やたら》にモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋《さび》しいもんだなあ」
「アリュウシャン群島に近いだろうな」
「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」
「どこいらだろうな」
「……サア……どこいらだろうな」
コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨《しゅちゅう》が飼っている斑《まだら》のフォックステリヤが、甲板に馳《か》け上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停《たちど》まった。クフンクフンと空中を嗅《か》ぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠《ほ》え初めた。
「オイ。陸《おか》だ陸だッ」
とアトから跟《つ》いて来た主厨の禿頭《はげあたま》が叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。
「ウワッ……陸《おか》だッ……大変だッ」
「後退《ゴスタン》……ゴスタン……陸《おか》だ陸だッ」
「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」
ワアワアワアワアと蜂《はち》の巣を突《つつ》いたような騒ぎの中《うち》に、船は忽《たちま》ちゴースタンして七千|噸《トン》の惰力をヤット喰止《くいと》めながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖《だんがい》絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額《ひたい》には皆|生汗《なまあせ》が滲《にじ》んだ。
「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛《ふえ》を鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸《おか》に近いのが知れなかったんだ」
「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」
「今の島はどこだったろう」
「セント・ジョジじゃねえかな」
「……手前《てめえ》……行ったことあんのか」
「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」
「何だ何だセント・ジョジだって……」
「ウン。間違《まちげ》えねえと思う。波打際《なみうちぎわ》の恰好《かっこう》に見おぼえがあるんだ」
「篦棒《べらぼう》めえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」
「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突《つ》ん抜けて白令海《ベーリング》へ這入《はい》っちゃったんだ」
「間抜けめえ。船長《おやじ》がソンナ半間《はんま》な処へ船を遣《や》るもんけえ」
「駄目だよ。船長《おやじ》にはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟《たた》られてんだ」
「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」
「居るともよ。船長《おやじ》がどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗《のぞ》いたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」
「ゲエッ。ホントウけえ」
「……真実《まったく》だよ……まだ驚く話があるんだ。主厨《カカン》の話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島|芳子《よしこ》ッてえ女知らねえか」
「知らねえね。○○女優だろう」
「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐《けとう》の船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台《ねだい》の下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物《くいもの》を領《わ》けてね」
「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違《ちげ》えねえ」
「だからよ。この船の船霊様《ふなだまさま》ア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」
「ああ嫌《いや》だ嫌だ。俺《おら》アゾオッとしちゃった」
「だからよ。船員《みんな》は小僧を見付《みつけ》次第タタキ殺して船霊様《ふなだまさま》を浄《きよ》めるって云ってんだ。汽鑵《かま》へブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」
「おやじの量見が知れねえな」
「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入《はい》ってると思うかって機関長に喰《く》ってかかったんだそうだ」
「機関長は何と云った」
「ヘエエッて引き退《さが》って来たんだそうだ」
「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威《おど》かしゃあいいのに」
「駄目だよ。ウチの船長《おやじ》は会社の宝物《ほうもつ》だからな。チットぐれえの気紛《きまぐれ》なら会社の方で大目に見るにきまっている。船員《のりくみ》だって船長《おやじ》が桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」
「それあそうかも知れねえ」
「だからよ。晩香坡《バンクーバ》に着いてっからS・O・Sの女郎《めろう》をヒョッコリ甲板《デッキ》に立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰《く》らわせようって心算《つもり》じゃねえかよ」
「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命《いのち》がけじゃねえか」
「まったくだよ。船長《おやじ》はソンナ事が好きなんだからな」
「機関長も船長《おやじ》にはペコペコだからな」
「ウムウム。この塩梅《あんばい》じゃどこへ持ってかれるかわからねえ」
「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」
「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」
「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」
コンナ会話を主檣《メインマスト》の蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧《のうむ》に鎖《とざ》されたような気になって……。
それから三日ばかりした真夜中から、波濤《なみ》の音が急に違って来たので眼が醒《さ》めた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年|寝床《ベッド》の中に起上《たちあが》った。
同時に船橋《ブリッジ》から電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛《むてき》をやめる。探照燈を消す。機関室は生き上《あが》ったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。
「石炭はドウダイ」
「桑港《シスコ》まで請け合うよ。霧は晴れたんかい」
「まだだよ。海路《コース》は見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」
「位置も方角もわからねえんだな」
「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座《カシオペヤ》が、ちょうどそこいらと思う近処《きんじょ》へウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」
「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」
「どっかへフッ飛んじゃったい。船長《おやじ》は晩香坡《バンクーバ》から鮭《さけ》と蟹《かに》を積んで桑港《シスコ》から布哇《ハワイ》へ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」
「安心したア。お休みい……」
「布哇《ハワイ》でクリスマスだよオオ――だ……」
「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」
「アハアハアハアハアハ……」
ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。
夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡《バンクーバ》とは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被《かむ》った聖《セント》エリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆《あき》れ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外《はず》れてしまっていたのだ。
そればかりではない。
船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺《ほら》を吹いても、あの波濤《なみ》のスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色《こんじょういろ》の大山脈が、海抜五千|米突《メートル》の聖《セント》エリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯《は》てしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千|噸《トン》だから荷物船《カーゴボート》では第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木《こ》っ葉《ぱ》も同然だ。
一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰好《かっこう》の聖《セント》エリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗《のぞ》いてもチットも霞《かす》んで見えない。山腹を這《は》う蟻《あり》まで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落《まっさかおと》しに七千噸の巨体が黒煙《くろけむり》を棚引《たなび》かせて辷《すべ》り落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推進器《スクリュウ》の泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。
……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一|刹那《せつな》、次の波の横っ腹に艦首《トップ》を突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦首《トップ》の甲板《デッキ》をタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜《もぐ》り込む。何《なん》しろ船脚《ふなあし》がギッシリと重いのだから一度、大きな波《やつ》にたたかれると容易に浮き上らない。船室《ケビン》という船室《ケビン》の窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖《とざ》されたまま、堅板《パーテカル》や、内竜骨《キールソン》が、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材料強弱《ストレングス・オブ・マテリヤルス》の公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙《しおけむり》を捲立《まきた》てながら、文字通り千仭《せんじん》の谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝床《ベッド》にジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。
「オイオイ。機関長か……」
船長室から電話がかかる。
「僕です。何か用ですか」
「ウン。もっとスピードが出せまいか」
「出せますが、何故《なぜ》ですか」
「船がチットも進まんチウて一等運転手《チーフメート》が訴えて来《き》おるんだ」
「今十六|節《ノット》出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ」
「馬鹿。出せと云ったら出せ」
「ドレ位ですか」
「十八ばっか出しちくれい」
「最大限《フル》ですね」
「ウン。石炭《すみ》は在るかな」
「まだ在ります。全速力《フル》で四五
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