降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」
「しかし降りるなら降りるで挨拶《あいさつ》ぐらいして行きそうなもんだがねえ」
「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」
 と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺《しわ》を寄せて……硝子球《ガラスだま》をギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。
 こうした俺たちの会話は、どこから洩《も》れたか判然《わか》らないが忽《たちま》ち船の中へパッと拡がった。
「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」
 と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向《むこ》う疵《きず》の兼《かね》が、この時に限って妙に落付いて、
「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居《お》れるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」
 と皆《みんな》を制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆《みんな》の気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗《のぞ》きまわって行くようであった
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