の船長《おやじ》の笑い顔なんだが、知らない人間が見たらとても笑い顔とは思えない。単なる渋紙の痙攣《ひっつり》としか見えないだろう。
「郵船名物のS・O・S・BOYだろう」
 と船長が嗄《しゃが》れた声でプッスリと云った。同時に眉《まゆ》の間と頬《ほっ》ペタの頸筋《くびすじ》近くに、新しい皴が二三本ギューと寄った。冷笑しているのだ。
「エヘッ、知ってるんですか。貴方《あなた》も……」
「ムフムフ……」
 と船長が笑いかけて煙草《たばこ》に噎《む》せた。船橋《ブリッジ》から高らかに唾液《つば》を吐いた。
「ムフムフ、知らんじゃったがね。皆《みんな》、そう云うとる」
「皆《みんな》って誰がですか。どんな連中が……」
「船中《ふねじゅう》で云うとるらしい。水夫の兼《かね》の野郎が代表で談判に来た。ツイ今じゃった」
「ヘエエ……何と云って」
「下《おろ》さなければあの小僧をたたき殺すが宜《え》えかチウてな。胸の処の生首《なまくび》の刺青《いれずみ》をまくって見せよった。ムフムフ」
「ヘエ。それで……下さないんですか」
 船長が片目を静かに閉じたり開いたりした。それからネービー・カットの煙《けむ》を私の顔の真正面《ましょうめん》に吹き付けた。
「……迷信だよ……」
「それあそうでしょうけどね。迷信は迷信でしょうけどね」
「ムフムフ。ナンセン小僧をノンセンス小僧に切り変えるんだ。迷信が勝つか。俺達の動かす器械が勝つかだ」
「つまり一種の実験ですね」
「……ムフムフ。ノンセンスの実験だよ」
「……………」
 二人の間に鉄壁のような沈黙が続いた。船長は平気でコバルト色の煙をプカプカやり出した。俺は、どうしたらこの船長を説き伏せる事が出来るかと考え続けた。
「君はいつからこの船に乗ったっけなあ」
 と船長が突然に妙な事を云い出した。
「一昨年の今頃でしたっけなあ」
「乗る時に機械は検査したろうな」
「しましたよ。推進機《スクリュウ》の切端《きっぱし》まで鉄槌《ハマ》でぶん殴ってみましたよ。それがどうかしたんですか」
「ムフムフ。その時に機械の間に、迷信とか、超科学の力とか、幽霊とか、妖怪《ばけもん》とか、理外の理とかいうものが挟まったり、引っかかったりしているのを発見したかね。君が検査した時に……」
「それあ……そんな事はありません。この船の機械は全部近代科学の理論一点張りで出来て動いているんですがね」
「現在《いま》でもそうかね」
「……………」
「そんなら……宜《え》えじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱風《たいふう》や、竜巻《スパウト》や、暗礁《リーフ》をこの船の前途《コース》に招寄《よびよ》せる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す」
「……………」
「元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最初《はな》から船に乗らんが宜《え》え」
 俺はギューと参ってしまった。一言《いちごん》ない……面目《めんぼく》ない……と思って残念ながら頭を下げた。
「ムフムフ。シッカリし給《たま》え。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上《あが》っち来い」
 船長《おやじ》を探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出《かけだ》して行く青服の少年《こども》を船長《おやじ》は手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵《チベット》紅茶の箱を、鼻の先に突付《つきつ》けて命令した。
「これを船長室《ケビン》へ持って行《い》て蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」
「CAPTAIN」と真鍮札《しんちゅうふだ》を打った扉《ドア》を開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭《におい》がムラムラと顔を撲《う》つ。その中に厚硝子張《あつガラスばり》、樫材《オークざい》の固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素|瓦斯《ガス》筒、電気|鎔接《ようせつ》機、天秤《てんびん》、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日《ようか》巻の時計の下の折釘《おれくぎ》に、墨西哥《メキシコ》かケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄《ものすご》い銀色の拳銃が二|挺《ちょう》、十数発の実弾を頬張《ほおば》ったまま並んで引っかかっているのだ。
 話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者《ひとりもの》で、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多《めった》にしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西《フランス》の大学で、理
前へ 次へ
全14ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング