山《きんかざん》沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈《やたら》に吹くので汽鑵《きかん》の圧力計《ゲージ》がナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事|夥《おびただ》しい。
 一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。
「今度は霧が早く来たようだね」
「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」
「そういえば少し寒過《さむす》ぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」
「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降《おろ》したんですか」
 船長は木像のように表情を剛《こわ》ばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。
「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」
「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」
「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」
「殺《や》ったんじゃねえかな……兼が」
 と云ううちに一等運転手《チーフメート》が自分でサッと青い顔になった。
「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」
「しかし降りるなら降りるで挨拶《あいさつ》ぐらいして行きそうなもんだがねえ」
「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」
 と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺《しわ》を寄せて……硝子球《ガラスだま》をギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。
 こうした俺たちの会話は、どこから洩《も》れたか判然《わか》らないが忽《たちま》ち船の中へパッと拡がった。
「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」
 と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向《むこ》う疵《きず》の兼《かね》が、この時に限って妙に落付いて、
「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居《お》れるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」
 と皆《みんな》を制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆《みんな》の気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗《のぞ》きまわって行くようであった。
 船を包む霧は益々《ますます》深く暗くなって来た。
 モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千|哩《マイル》近くは来ている。ソロソロ舵《かじ》をE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈《はげ》しいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八|浬《ノット》の経済速度《エコノミカルスピード》の半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千|噸《トン》の巨体が蟻《あり》の匍《は》うようにしか進まなかった。
「オイ。どこいらだろうな」
「そうさなあ。どこいらかなあ」
 といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。
「汽笛《ふえ》を鳴らすと矢鱈《やたら》にモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋《さび》しいもんだなあ」
「アリュウシャン群島に近いだろうな」
「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」
「どこいらだろうな」
「……サア……どこいらだろうな」
 コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨《しゅちゅう》が飼っている斑《まだら》のフォックステリヤが、甲板に馳《か》け上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停《たちど》まった。クフンクフンと空中を嗅《か》ぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠《ほ》え初めた。
「オイ。陸《おか》だ陸だッ」
 とアトから跟《つ》いて来た主厨の禿頭《はげあたま》が叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。
「ウワッ……陸《おか》だッ……大変だッ」
「後退《ゴスタン》……ゴスタン……陸《おか》だ陸だッ」
「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」
 ワアワアワアワアと蜂《はち》の巣を突《つつ》いたような騒ぎの中《うち》に、船は忽《たちま》ちゴースタンして七千|噸《トン》の惰力をヤット喰止《くいと》めながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖《だんがい》絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額《ひたい
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