か持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」
「君から船長にそう云い給え」
「ドウモ……そいつが苦手なんで」
「よし。俺が云ってやろう」
忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手《チャプリン》の話が五月蠅《うるさ》かったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上《かけあが》って、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜《すす》っていた。傍の鉛張《なまりば》りの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。
俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。
「この小僧を借してくれませんか」
伊那少年の横顔からサッと血の気が失《う》せた。魘《おび》えたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比《みくら》べた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心|愕然《ぎょっ》としたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。
「どうするんだ」
「石炭《すみ》運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」
「臨時は雇えないのか」
「急には雇えません。二十四時間以内の積込《つみこ》みですからね。明日《あした》の間《ま》になら合うかも知れませんが……皆《みんな》モウ……ヘトヘトなんで……」
船長の額《ひたい》に深い竪皺《たてじわ》が這入《はい》った。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。
それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧《ていねい》に拭《ふ》いた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳《め》を一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。
その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。
船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。
「大丈夫だろうな」
俺は無言のまま無造作にうなずいた。
俺と一所《いっしょ》に静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子《ガラス》のような眼球《めだま》をギラリと光らした。決然とした低い声で云った。
「……ヨシッ……行けッ……」
「ウワア――アッ……」
と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響《ひびき》、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否《いな》、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交《まじ》っているのを予感していたのだね。
しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。
「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」
「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」
「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家《うち》に居るんですから……」
伊那少年は濡《ぬ》れたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。
「ウハハハハ。何を吐《ぬ》かすんだ小僧。心配《しんぺい》しるなって事……俺《おら》が引受けるんだ。この兼《かね》が受合《うけお》うたら、指一本|指《さ》さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」
兼は横に在った露西亜《ロシア》製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊《つる》した。小雨《こさめ》の中で金モール服がキリキリと廻転した。
「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」
「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」
兼は大口を開《あ》いて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛《こわ》ばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額《ひたい》の向疵《むこうきず》までが左右に開《ひら》いて笑ったように見えたので……。
「……サ柔順《おとな》しく働らけ。誰も手前《てめえ》の事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」
小雨の中に肩をすぼめて艙口《ハッチ》を降りて行く伊那少年の背後《うしろ》姿は、世にもイジラシイ憐《あわ》れなものであった。
そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。
犬吠埼《いぬぼうさき》から金華
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