開《あ》けて通してやった。平生《ふだん》なら甲板から塵《ちり》一本、機関室へ落し込んでも、只《ただ》はおかない連中であるが……。

 そんな訳で、風前の燈火《ともしび》みたような小僧の生命《いのち》を乗せたアラスカ丸が、無事に上海《シャンハイ》を出た。S・O・Sどころか時化《しけ》一つ喰《く》わずに門司《もじ》を抜けて神戸に着いた。それから船長《おやじ》一流の冒険だが六時間の航程《コース》を節約《つめ》るために、鳴戸《なると》の瀬戸の渦巻を七千|噸《トン》の巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄《ふる》え上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。
 横浜で印度《インド》綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩香坡行《バンクーバゆき》の木綿類を吃水《きっすい》一パイに積込《つみこ》む。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石炭《すみ》を、船が割れる程|突込《つっこ》む訳だが、その作業は平生《いつも》の通り二三日がかりで遣るのでさえ相当|忙《せわ》しいのに、向岸《むこうぎし》の晩香坡《バンクーバ》から突然《だしぬけ》に大至急|云々《うんぬん》の電報が来て、二十四時間以内の出帆《しゅっぱん》という事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影響《おかげ》とかで、臨時人夫《エキストラ》が間に合わないと来たので、機関部の石炭《すみ》運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。
 それも一口に地獄と云っただけじゃ局外者《しろうと》にはわからないだろう。普通の客船《メイルボート》は別であるが、外国通いの気の利いた荷物船《カーゴボート》になればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空隙《すきま》のあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭庫《すみぐら》以外に殆《ほと》んど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪《ゆが》み曲った空隙《くうげき》に石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世《よ》の生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後《うしろ》の空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽《タンク》の鉄蓋《てつぶた》まで突き抜けた鉄骨の隙間《すきま》に、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気《スチーム》の鉄管《パイプ》が一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸《いき》が詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後|大火傷《おおやけど》だ。そこに濛々《もうもう》と渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊《つる》した二百|燭光《しょく》の電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠《すみかご》を担いで往復してから急に上甲板《じょうかんぱん》の冷《つ》めたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒《た》おれるんだ。ところがブッ倒《た》おれたと見ると直ぐに、兄イ連《れん》が舷側《ふなばた》に引《ひき》ずり出して頭から潮水《しおみず》のホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。
「見やがれ。コン畜生《ちくしょう》。死《くた》ばるんなら手際よくクタバレ」
 といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数《にんず》で限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券《こけん》にかかわるんだから止《や》むを得ない。所謂《いわゆる》、近代文明って奴の裡面《りめん》には到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。
 その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込《つみこ》む石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服《なっぱふく》を真黒にした二等機関士《セカンド》のチャプリン髭《ひげ》が、喘《あえ》ぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。
「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」
 と一喝《いっかつ》すると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。
「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」
「……でも船長室のボーイが遊んでいます」
「あんな奴が何の役に立つんだ」
「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なん
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング