。現に水夫の中でも兄い分の「向《むこ》う疵《きず》の兼《かね》」がわざわざ鉄|梯子《ばしご》を降りて、俺に談判を捻《ね》じ込んで来た位だ。
「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯《でば》だから一名「出歯兼《でばかね》」ともいう。クリクリ坊主の額《おでこ》が脳天から二つに割れて、又|喰付《くいつ》き合った創痕《きずあと》が、眉《まゆ》の間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁《でばぼうちょう》を啣《くわ》えた女の生首《なまくび》の刺青《ほりもの》の上に、俺達の太股《もも》ぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台《ねだい》にドッカリと腰を卸《おろ》して出《で》ッ歯《ぱ》をグッと剥《む》き出したもんだ。
「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長《おやじ》の処《とこ》へ行って来たんでがしょう。親方ア」
「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」
「すみませんが船長《おやじ》があの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫《デッキ》連中の代表になって、船長《おやじ》の云い草を聞かしてもらいに来たんですが」
「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」
「お前さん何にも船長《おやじ》に云わなかったんけエ」
「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長《おやじ》は……」
「ヘエー。何も返事をしねえ」
「ウン。いつもああなんだからな船長《おやじ》は……」
「あの小僧を大事《でえじ》にしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」
「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」
「エムプレス・チャイナへ面当《つらあ》てにした事でもねえんだな」
「むろんないよ。船長《おやじ》はあの小僧を、皆《みんな》が寄って集《たか》って怖がるのが、気に入らないらしいんだ」
「よしッ。わかったッ。そんで船長《おやじ》の了簡《りょうけん》がわかったッ」
「馬鹿な。何を云うんだ。船長《おやじ》だって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」
「インニャ。何も船長《おやじ》を悪く云うんじゃねえんでがす。此船《うち》の船長《おやじ》と来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪《しゃく》に障《さわ》るのはあの小僧でがす。……手前の不吉《いや》な前科《こうら》も知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触《さわ》るんで……遠慮しやがるのが当前《あたりまえ》だのに……ねえ……親方……」
「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰《つぶ》す気で乗った訳じゃなかろう」
「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」
「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」
「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵《きず》は承知しても他《はた》の奴等《やつら》が承知出来ねえ。可哀相《かわいそう》と思うんなら早くあの小僧を卸《おろ》してやっておくんなさい。面《つら》を見ても胸糞《むなくそ》が悪いから」
「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」
「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命《いのち》がねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」
「よしよし。俺が引受けた」
「ヘエ。どう引受けるんで……」
「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命《いのち》を俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達《めえたち》が勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」
「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等《あっしら》あ手を引きましょうが、しかし機関室《こっち》の兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組《デッキ》の者《もん》ですからね」
「わかってるよ。それ位の事《こた》あ」
「ありがとうゴンス。出娑婆《でしゃば》った口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」
 と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命《いのち》知らずの兇状持《きょうじょうもち》ばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室《へや》の入口一パイに立塞《たちふさ》がって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付《めつき》をしながら扉《ドア》の蔭に犇《ひしめ》いていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を
前へ 次へ
全14ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング