ゆれば、東京の婦人の第二職業で、看護婦程恐ろしい度胸を要するものはないであろうという。
看護婦さんは自分の手にかけた患者が死ぬとお悔《くや》みに行かねばならぬ。お手当によっては会葬もせねばならぬ。それが当り前に手にかけて当り前に殺したのならば何でもないが、何でもあるのに平気で遺族の前に行って、平気で涙をこぼさねばならぬ。これが普通の第二職業婦人には滅多に必要のない芸当で、この点だけは如何なる阿婆摺《あばず》れでも看護婦さんの平気さに舌を捲くそうである。
知っていて損はあるまい。
真面目な職業婦人のグループの苦しみ
美容術師は看板や広告の意味で美人を仕込むので、特に上流向きに出来ている。しかし、有名なビルディングの美容術師の入口の大鏡の前に、絵のような美人がうつむいて腰をかけている姿を二三度見かけた。雑誌を読んでいたり、編み物をしていたりした。お湯屋の看板娘程度の意味か、それとも張り店式の意味のものかどうかは、考える人の考えようである。
こうした中を抜けつくぐりつ営業する真面目な職業婦人や、何々会なぞのやりにくさといったらないそうで、そんな不平は到る処耳に胼胝《たこ》である。
尚、このほかに女流音楽家というのがあるが、これにはあまり別嬪が居ないそうで、手固いのも珍らしくない。手柔《てやわら》かいのでも、あまり民衆的ではないようだからここには敬遠する。
九州方面に特に音楽家崇拝者が多いために遠慮したものでないことを、特にお断りしておく。
第二職業の秘密程度
各種職業婦人の第二職業の秘密程度には何となく階級がある。
芸妓《げいしゃ》は秘密とはいう条、公然同様であるから略するとして、女給、家内女等を仮に第三級とする。但、これも公然といえば公然である。派出婦、美容術師、助産婦、看護婦なぞの第二職業は大分《だいぶん》秘密の程度が高くなる。前の第三級に対して第二級とでも云おうか。尤もこの中で看護婦はほかのよりも有りふれているようだから別格かも知れぬ。
女事務員、女タイピスト、女医者、女薬剤師、女会計なぞいうのは、或る一面から見れば秘密程度が第二級よりも低いといえるが、眼先の新しい点では他の各級各種類のどれよりもすぐれている。つまり、その秘密ぶりがあまり知られていないから第一級とした。今の東京の暗黒面を最も深刻に、且つ不可思議な美しさで彩《いろど》っているは、実にこうした職業婦人なのである。
「ナアニ、そんなに秘密でもなければ珍らしくもないよ」
と云う人があったら、その人は新東京人のチャキチャキである。それだけ東京人の堕落に対する批判の公平を喪っているものと見ねばならぬ。
白昼街頭の怪しい女のむれ
丸ビルの悪魔式少女団の話は早くも過去の夢になった。
彼女達の重立《おもだ》った者は、数名一団となって或る店に雇われていた。鉛の強いお化粧をコテコテと塗って、青い事務服を着て、店一パイの硝子《ガラス》窓の前に並んでカチャンカチャンとタイプライターを打っていた。その向うに四十代と二十代と二人の好男子が、リュウとした背広を着て、腰をかけて見張っていた。お客はあまりないようであった。
通りかかりの人が大勢、冷たい硝子窓に額や頬を押つけて、そのカチャンカチャンを飽かずに見ていた。
まだこのほかにも丸ビルには、彼女たちと似たようなお化粧ぶりの女がいくらもいた。
否、ここばかりでない。有名な駅の切符売場、郵便局の窓にも、問題の女がチョイチョイ居るのを見た。
銀座の或る菓子屋には、欧州風の部屋着の揃いに、揃いの頭、揃いの髪飾りの美少女が五人、輪を作って椅子に腰をかけていた。只それだけの役目らしく、お客が来ると男の店員が代って応対をした。
神田の某文具店の女店員は、鉛筆部、ノート部、帳簿部、万年筆部といった風に受け持ちがあって、勘定一切の責任を負うている。仕事は親切で態度も慎ましやかである。しかもそれが化粧は揃いも揃って夜の光線向きで、一見怪しい女だと思わせられた。
某大百貨店と某大呉服店の女店員(茶酌み女も含む)が平均十円程度の売り物である事は、上流の貴婦人にもかなり知られているらしい。
これに対抗して銀座の或る大ビルの事務所では、事務員に東京生れの醜婦ばかりを集めているとこの頃聴いた。事実とすれば、東京人の堕落に対する一種の裏書とも考えられる。
近代式挑撥的化粧法
この式に見てまわると、東京市中美人ならざるなしである。殊に最近、印象派とか、表現派とかの絵が極めて通俗的に流行するようになったので、女は皆お化粧が上手になって、美人でなくとも挑撥的には見える化粧法が発達して来た。この傾向は第二職業を持つ婦人に特に有利で、そのためか東京市中の女が特に毒々しく引立って見える。結局、純然たる第一種の職業婦人に見える女性でも、その化粧ぶりを見ると、あらかたこの女はと思える事になった。
第一種職業婦人式第二種職業婦人は、かように到る処に居るには居るが、慣れない者には猿猴《えんこう》が月で手に取る方法がわからない。
但、この道の通人を友人に持っていれば訳はない。どこのタイピストはどこの煙草屋のおやじが世話をしている。どこの女店員はどこの桂庵が一手販売だ。あそこの工女は何というゴロツキの縄張りで、どこの缶詰屋で切符(線香?)を売っているなぞと、わけはない。
専門又はデパート式別嬪屋
京橋|木挽《こびき》町の或る大建築の前の缶詰兼洋酒類煙草屋は、震災前、海軍大学その他、高等海員向きの女の世話をするので通人間に知られていた。今もあるかどうか知らぬが、こんな風に職業婦人を紹介する処が、今では東京市中到る処にあると云っていい。どこの工女とか、女店員とか専門のもあれば、お望み次第のデパート式もポツポツある。そこで一度顔なじみになれば、別の専門へ紹介してくれるのもあるそうな。
線香、席料なぞは芸妓と似た組織で、もっと手軽で安値で自由であると思えばいい。勿論、ここに述べた第二級、第三級の職業婦人も同様である。このほか、カフェーや料理屋の密室組織もあるが、古めかしいから略する。
友人の紹介でこんな処に行くのは、安心であるが興味が薄い。勇敢な連中は新しい処を新しい処をと探す。今一歩進んで直接交渉や街頭の奇襲、又は家庭訪問などと出かける英雄もいる。その結果、田舎者と同様の失策をやる事が珍らしくない。
あとをつけたら警察署長官舎へ
カフェーで飯を喰っているうちに、これは素敵と見当をつけてあとをつけたら、電車に乗って山の手へ来た。その降り口の交番の巡査がその女に敬礼をしたから、これは珍だとついて行ったら、或る門構えの家へ這入った。どうも変だから最前の巡査にきいてみたら、「あの家は警察署長の官舎です」……。
マッサージをやる美人後家の下宿をねらって這入ったら、奥の間に脊髄病の入れ墨男が居て、その後家を女衒《ぜげん》の手先に使っていた……。
さる三人の女タイピストが居る会社に定宿直をする四十男が眼付きの怪しいところに見当をつけて、夕方その男を電話で呼び出してタイピストの世話を頼んだら、「すぐにお出《いで》なさい」と云った。行って見たら危うくなぐられそうになって、命からがら……。
……なぞと嘘か本当か限りもないが、この辺で略する。
成功談も無論ある。バラック都市の人々は、寄るとさわるとこの種の新発見の話ばかりしている。しかし、あんまり紹介すると一種の奨励になるから、その中でも最も新しい、且つ事実に相違ないところを綜合して二三紹介する。
素晴らしい秘密の一夜
嘗《かつ》て、丸ビルの靴磨きが女事務員のブローカーである事が某雑誌で素《す》ッ破《ぱ》抜かれると、そのおやじは早速消え失せた。しかし、そのあとが決して消滅した訳ではない。石川や浜の真砂と同じ事である。
但、靴磨きだけは、その後、或る種の恐慌を感じたという。
ずっと前の項で秘密画売買の件の中に、普通の美人写真の絵葉書ばかり持っているのがあるとだけ書いておいた。その大道で秘密に売る普通の美人絵葉書は、大抵一枚七八円から四五円迄ある。黙ってこれを買うと、向うから時間と場所を云う。終夜か半夜かと聞くものもある。聞かぬのもある。
そこへ出かけると、表はつまらぬ家だが、裏には一寸した室が二つか三つ以上ある。そこに控えていると、約束に一分違わず、最前買った絵葉書の主が出て来る。
喰い物や飲みものは出前で取る。火鉢、座布団、その他は、その家から賃借りをする。気の利いた処になると、床の間の掛物、屏風、机、電燈の燭光まで金ずくで、相手が美しいと、総計三十円も奮発すればとても素晴らしい一夜が明かせるという。飽く迄もバラック式の文化式である。
第二職業婦人仲介業いろいろ
この手の商売が絵葉書屋にもある。
記者は東京市中の秘密出版物の景況を探る目的で、絵葉書屋を見当る毎度《たびごと》に飛び込んで、
「男の裸体の絵葉書はないか」
ときいてまわった事がある。その返事は大抵、
「御座いません。その筋が八釜しいので」
という意味のものであった。そこで女の裸体の絵葉書を出していろいろ話していると、秘密画を出して見せるところもあるが、前に説明した高価な美人絵葉書を出して見せるところもある。
大道の美人絵葉書売りと違って、店で売るのは種類が多いのが通例である。
「これは特別のですが、如何様で……」
とニヤリと笑う。人が見ていても、価格さえ聞かねば、普通の絵葉書と変りはないのだから便利である。
気に入ったのがあれば、そこで協商が成立する。時間と場所を聴いて、金を払っておきさえすれば、決して間違いはない。
中には、かような絵葉書屋で、裏二階や何かを利用して待合兼業でやっているのもあると聞いた。
まだある。
到る処の怪しい家
東京市中にある各種のホテル又は宿屋等で、宿屋は宿屋としてチャンと商売していながら、兼業に怪しい男女を泊めるのが大変多い。そんなので通人仲間に名の知れた手堅い? のに泊まって、番頭とか支配人を呼んで頼めば直ぐに電話をかけてくれる。しかし、そんな処へ行くのは、どちらかと云えば平凡な組の通人だそうな。
まだある。
東京市の郊外、又は東京市内のちょっとした横町、又は坂道や高台の近くの見晴らしのいい処に、宿屋ともつかず下宿屋ともつかぬ家がよくある。有り体に云えば、同伴客昼夜宿泊所又は仲介業とでも云うべきで、東京市中にいくらあるか知れぬ。夫婦者で、表に「精進上げ」なぞを並べて、二階二間位を使ってコヂンマリやっている式に到っては数限りなかろう。
但、この程度まで来ると強《あなが》ちに職業婦人に限ったわけでなく、又震災後に限ったわけでもない。昔から東《あずま》にあり来りで、それが最近に到って急にふえたまでのことである。
この式の宿屋に出入りするものは、良家の子女、純職業婦人はもとより、駈け落ちもの、出来合いものの数をつくして自由自在である。
東京人の堕落時代は、こうしてあらゆる方面に色彩を深めて行く。
[#改ページ]
下層社会
安飲食店の女
東京の上流社会の紊乱《びんらん》は既に書いた。中流社会の堕落と認められている職業婦人の堕落も、以上述べる通りである。
そんなら下層社会はどうか。
下層社会の堕落の対象は、大体に於て所謂低級な醜業婦、即ち単純な意味の職業婦人である。どちらかと云えば何等の仮面をも冠《かぶ》らぬ。――初めから醜業婦として客を招く女である。
この方面に関する記者の報道は極めて簡単で済む。東京市中到る処魔窟ならざるなしという一語で済む。
天麩羅、おでん、すし、一ぜんめし、酒肴、一品洋食、支那料理、簡易食堂、平民バーといったようなのが東京市中到る処にある。その中の十中八九は怪しいと云ってよい。ほんの申訳《もうしわけ》に食器や空瓶を並べたのが、どうかした横町に行くとザラにある。そこには必ずその白い頬と唇の赤い女が
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