《のろけ》豪華版
それから断髪令嬢がシャクリ上げシャクリ上げ話すところを聞いているうちに、やっと事情《わけ》が判明《わか》って来た。この断髪令嬢は本名を山木テル子さんという山木氏の一人娘で、エース女学校を去年卒業したばかりの才媛である。二年|前《ぜん》に前外務大臣|唖川《おしがわ》伯爵の令息で、唖川|歌夫《うたお》という外務省情報部勤務の青年と婚約が出来ているのが、父親山木|混凝土《コンクリート》氏の疑獄事件で、そのままになっているという。
ところで、その唖川歌夫という青年外交官は、嘗《かつ》てその婚約時代に和蘭《オランダ》、独逸《ドイツ》、瑞西《スイス》を遊学してまわった事があるが、その帰朝土産に仏蘭西《フランス》は巴里《パリ》の犬の展覧会から、何万|法《フラン》か出して買って来た世界第一、無類|飛切《とびきり》というフォックス・テリヤのお手本みたような仔犬を一匹持って来て令嬢に与えた。
「式を挙げるまで、これを僕と思って可愛がって下さい」
という婚約者のお手本みたいな甘ったるい文句附きであったが、その犬の特徴というのは、ピアノを弾き初めると妙に眼を白くして天井を見てアクビみたいな声を出して、アウーアウーと合唱する。そのほかABCのカード拾いだの、十以下の計算の答えをカードで出したりするので、令嬢はそれこそ有頂天になって、名前をUTA《ウータ》と名付けて、手の中の玉みたいに可愛がって夜は一緒に抱いて寝る。眼が醒めると、
「サア。ウーちゃん御飯をお上り」
と頭を撫でてやる。お客様が来ると直ぐに連れて来て芸当をやらせる。お客様が感心すると抱き寄せて頬ずりをしてやる。
「ねえ、随分|怜悧《りこう》でしょ。これ唖川小伯爵から頂いたのですよ。ねえねえウーちゃん。アラアラ眼脂《めやに》が出ているわよ」
なんかと云って嘗《な》めてやらんばかりにして見せるので大抵のお客が驚いて帰ってしまう。夜となく昼となく甘ったるい言葉ばかりかけるので実の両親までもが、朝から晩までエヘンエヘンと云っていたという。
ところが、その父親に対する妙な風評が、次第に高まって来て、門の表札が引っぺがされたり、二階の硝子《ガラス》窓から石が飛込んで来たりし始めると間もなく、突然にそのUTA《ウータ》君が行方を晦《くら》ました。むろん逃げたものだか殺されたものだか見当が附かない。門の外に出さないのだからといって鑑札を受けていなかったのが、運の尽きであったのかも知れない。
テル子さんはキチガイみたいになった。むろん警察に頼んだ。私立探偵も雇った。自分でも男装して父親のパッカードのオープンを運転しながら、市中を駈けまわって探したものであるが、そのうちに世間の父親に対する憎しみがだんだん高まって来ると、とうとうそのパッカードにまで石を投げる奴が出て来た。しまいには壮士みたいな奴が五六人、大手を拡げて行手に立塞《たちふさ》がったりするようになったので、流石《さすが》の断髪、男装令嬢も門外へ一歩も出られなくなってしまった。おまけに「非国民の断髪令嬢、大威張りでパッカードを乗廻す」という新聞記事で止刺刃《とどめ》を刺されてしまった。
ところが間もなく更に、それ以上の打撃がテル子嬢の上に落ちかかった。
その頃既に父親の山木コンクリート氏は、世間の風評に対して極度の神経過敏症に陥っていたらしい。そのUTA《ウータ》が居なくなったのは婚約者の唖川小伯爵がコッソリ盗み出したものに違いないと云い出した。俺みたいな奴の娘を名門の息子が貰う訳に行かないというので、父親の唖川前外相の指令か何かを受けた小伯爵が、人を頼んでか、又は自分自身でか盗み出したものだ。今の華族なんて奴は妙に家柄や何かを振《ふり》まわすが、その振まわす根性といったら実に軽薄なものなんだ。よしんば親は泥棒にしても子供同士は清浄無垢なものなんだ。況《いわ》んや俺の心境は明鏡止水、明月天に在り、水甕《みずがめ》に在りだ。そんな軽薄な奴の息子にかけ換えのないお前を遣る訳に行かん。
あの医学士の羽振菊蔵《はぶりきくぞう》を見よ。彼奴《あいつ》の親爺《おやじ》の羽振|菊佐衛門《きくざえもん》は貴族院議員のパリパリで、日支銀行の頭取という財界の大立物なんだが、そんな名門|面《づら》を一度もして見せた事がないばかりでない。俺に対する世間の疑惑が高まれば高まるほど熱心に俺の世話をしているだろう。毎日のように俺に秘密の電話をかけて俺を慰めていたではないか。その伜《せがれ》の菊蔵でも同じ事。親の光りで暇潰しの外交官なんかやっている青二才とは育ちが違う。俺の悪評が高くなったこの頃になって平気でお前に婚約を申込んで来るところを見ると相当の苦労人だ。あの男は目下大学で博士号を取る準備をしているそうだから。近いうちに博士になるだろう。博士になったら、お前の婿《むこ》として恥かしくないのみならず、彼の精神が実に見上げたものだ。
第一唖川歌夫という奴は、外交官の癖に、親譲りの無口でブッキラボーで、刑事みたいな凄い眼付きをしているから、到底外交官なんかに向かない事が、わかり切っている。これに反して羽振菊蔵の方は弁舌が爽かで、男ぶりがよくて世間の常識に富んでいるから、俺みたいな年寄と話してもチットモ退屈させないから感心してしまう。だからお前も、いい加減に諦めて、羽振の方に婚約を切りかえろ、俺は一生懸命で、お前のためばかり思っているんだぞ……とか何とかいったような訳で、混凝土《コンクリート》氏は或る夕方のこと、涙を流さむばかりにしてテル子嬢の手を握っているうちに、突然に検事局に引っぱられて、そのまま未決へ放り込まれてしまった。そのアトは父の気に入りの津金勝平《つがねかつへい》という執事みたいな禿頭《とくとう》の老人と、親よりも誰よりも八釜《やかま》しい古参の家政婦で、八木節世《やぎせつよ》という中婆さんが、家《うち》中の事を切まわしているので、テル子嬢は全然手も足も出なくなっているという。
「唖川歌夫さんは、それっきりお手紙を一本も下さらず、お電話もおかけになりません。おかけになっているかも知れませんけど、電話はイツモ家政婦の八木さんか、津金爺さんが聞いてしまって、私には知らせませんし、お手紙だって私が見る前に二人して隠しているらしい様子ですから……あたし……情なくて……悲しくて……スッ……スッ……」
吾輩はそういう令嬢の泣声を聞きながら茫然として相手のお合羽《かっぱ》頭を眺めていた。
「フーン。で、その犬がアンタの手に帰ったらアンタはどうするつもりかね。参考のために聞いておきたいのじゃが」
「だって、そうじゃ御座いません? その犬が居ないと歌夫さんに、直ぐ来て下さいってお手紙が上げられないじゃ御座いませんか。いつでも速達を上げると直ぐに飛んで来て下すったんですからね。そうしてお出《い》でになると直ぐに犬の事をお尋ねになるんですからね」
ルンペン道
「イヤ。わかったわかった。よくわかった。なかなか困難な註文のようじゃが、やってみるかな一ツ……」
「あら……どうぞお願いしますわ」
テル子嬢が立上った。振袖を床の上に引《ひき》ずってお辞儀をした。吾輩もやおら立上った。
「……しかし……もう一つお尋ねしておきたいことがあるがな」
「ハイ。何なりと……」
「そのアンタの母さんが自動車でお怪我《けが》をしなさった時の模様が、聞いておきたいのじゃが」
「それが、よくわからないので御座います。母はただ口惜しい口惜しいと申しましてキチガイのように泣いてばかりおりまして……母は元来、非道《ひど》いヒステリーで御座いまして、お医者様から外出を停められていたので御座いますが、ちょうど一月ばかり前のこと、あんまり屋内《うち》にばかり引っ込んでいてはいけないからと申しまして、セパードを連れて散歩に出かけますと間もなく、顔のマン中へ脱脂綿と油紙を山のように貼り付けて帰って参りましたのでビックリ致しました。何でもゴーストップが開《あ》いたので、犬を引いたまま横断歩道に出ようとすると、横合いから待ち構えていたらしい箱自動車が出て来て妾《わたし》を突飛ばした。その自動車の中から髯だらけの怖い顔をした紳士が降りて来て、気味の悪い顔でニタニタ笑いながら、私を診察しいしい、まわりを取巻いている見物人をワイワイ笑わせていた。その隙《すき》に、その紳士が、妾のハンド・バッグの中味を検《あらた》めて大切な書類を攫《さら》って行ったものらしい。あの髯だらけのルンペンみたいな紳士が、きっと反対党の廻し者か何かだったに違いない。口惜しい口惜しいと云って寝床の中で身もだえをしておりますうちに、非道い発作が起りまして、『妾はコンナ非道い侮辱を受けた事はない。仇《かたき》を取って来るから』と云って駈け出しそうになりますので皆《みんな》して押え付けようとしましたが、どうしても静まりません。却《かえ》って非道くなってしまって、弓のようにそり反《かえ》りますので、そのまま神田の脳病院に入れて、寝台へ革のバンドで縛付けておきますと、その革のバンドを抜けようとして藻掻《もが》いた揚句《あげく》、どこかへ内出血を起して、その自家中毒とかで突然に……亡くなりまして……」
「成る程。どうもエライ騒ぎじゃったな。不幸ばかり重なって……」
「……ですから一層のこと歌夫さんがお懐かしくて仕様が御座いませんの。コンナ時にこそ居て下さると、どんなにか力になるでしょうと思いながら、それも出来ませんし」
「イヤ。わかったわかった。よくわかった。とにかく吾輩が引受けた。直ぐに今から活動を開始するじゃ。それではこれで帰ろう……いや構わんでくれ。左様《さよう》なら……」
吾輩は一人で喋舌《しゃべ》りながら慌てて帽子を冠って、長靴を穿《は》いて玄関を飛出した。往来に出て真青な空を仰ぐとホッとした。「アハハハハ……」と思わず一人で高笑いした。冗談じゃない、テル子嬢の母親を殺し、父親を未決監にブチ込んだ人間は誰でもない、この吾輩という事になっているらしい。直接に殺さなくとも責任は十分こっちにあるらしい。母親の云う事はテンヤワンヤのゴチャゴチャだらけであるが、それでも吾輩の笑い顔だけはハッキリと記憶に残して死んでいるらしいのだから頗《すこぶ》る気味が悪い。しかも女というものは、思い違いでも何でも構わない、一度そんな風に思い込んでしまうと、アトでいくら間違っていることが判明《わか》っても決して素直に承認する動物でない。女に思い込まれたのと、暴力団に附け狙われたのと、新聞に書かれたのと、スッポンに喰い付かれたのとは、如何なる場合でも運の尽きである。ありもしない事を勝手に口惜しがって死んだ場合でも、遠慮なく閻魔《えんま》大王から幽霊の鑑札を受けて娑婆《しゃば》に引返して来る位の決心を、女というものはフンダンに持っているのだから厄介だ。
のみならず何を隠そう、一個月ばかり前にテル子嬢の大事なフォックス・テリヤを盗んで大学の博士の卵に売付《うりつ》けたのは、誰あろう、この吾輩なのだ。家人の隙《すき》を窺ったものであろう。チョコチョコと門の中から出て来て吾輩に向って尻尾《しっぽ》を振っている可愛らしいテリアに鑑札のないのを見て……この野郎、これくらい立派な家で鑑札を受けていないナンテ手はない、怪《け》しからん野郎だ、引っ攫《さら》ってやれ……といったような気持でポケットに入れたのが吾輩の運の尽きであった。そのテリアたった一匹のために、お人形さんみたいな快活、明敏な令嬢が、破鏡の悲劇に陥ろうとしている。冗談じゃない。この責任が負わずにおられるもんか。
他人にわかりさえしなければ、どんな事をしてもいいというのが現代の上流社会の紳士道らしいが、吾々の所謂《いわゆる》ルンペン道ではそうは行かん。五千円のダイヤでも無代《ただ》では貰わない。チャンと二銭払うのが屑屋の仁義になっているじゃないか。
UTA《ウータ》ヤアイ
世の中に行きがかりぐらい恐ろしいものはない……と吾輩は賑やかな電車通りに出て考えた。井伊の
前へ
次へ
全14ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング