、新聞と検事に背中をたたかれたたかれ財産と臓腑の清算、尻拭い中である。その奥さんは、その亭主の尻拭い紙である色々な重要書類を紛失したのを苦にして、発狂して死んでしまった……と云ったら誰でも「ああ。あの混凝土《コンクリート》野郎か」と云うであろう。
 その混凝土《コンクリート》氏こと、山木《やまき》勘九郎氏邸の前を通ると、鬱蒼《うっそう》たる樫《かし》の木立の奥に、青空の光りを含んだ八手《やつで》の葉が重なり合って覗いている。その向うにゴチック式の毒々しい色|硝子《ガラス》を嵌《は》め込んだ和洋折衷の玄関が、贅沢にも真昼さなかから電燈を点《つ》けて覗いているもう一つ向うに、コンクリートの堂々たる西洋館が聳《そび》えているところを見ると、如何にも容易ならぬ金持らしい。ちょっと忍び込んでみたくなる位である。多分、あの樫の木の闇《くら》がりが御自慢なのであろうが、混凝土《コンクリート》を喰った証拠に混凝土《コンクリート》の家を建てるのはドウカと思う。……なぞと詰まらない反感を起しながら門の前を通り過ぎようとしているところへ、その鬱蒼たる樫の木闇《こくら》がりの奥から聞こえたのが今の呼声だ。
 コンナ立派な家の中から、あんな綺麗な声で呼ばれるおぼえは無い。間違いではなかったかなと思っているところへ、門の中から花のような綺麗な、お嬢さんの姿があらわれた。
 年の頃十八九の水々しい断髪令嬢だ。黒っぽい小浜縮緬《こはまちりめん》の振袖をキリキリと着込んで、金と銀の色紙と短冊の模様を刺繍した緋羅紗《ひらしゃ》の帯を乳の上からボンノクボの処へコックリと背負い上げて、切り立てのフェルト草履の爪先を七三に揃えている恰好は尋常の好みでない。眼鼻立《めはなだち》が又ステキなもので、汽船会社か、ビール会社のポスター描《か》きが発見したら二三遍ぐらいトンボ返りを打つだろう。
 そいつがニッコリ笑うには笑ったが、よく見ると顔を真赤にして眼を潤《うる》ませている。まさか俺に惚れたんじゃあるまいが……と思わず自分の顔を撫でまわしてみたくらい、思いがけない美しい少女であった。
「何だ……吾輩に用があるのか」
「……エ……あの。ちょっとお願いしたい事が御座いますの」
 と云ううちに、しなやかな身体《からだ》をくねくねという恰好にくねらせた。しきりに顔を真赤にして自分の指をオモチャにしている。
「……ハハア。犬が欲しいんか」
 まさかと思って冷やかし半分に、そう云ってみたのであったが、案外にもお合羽《かっぱ》さんが、如何にも簡単にうなずいた。
「ええ……そうなんですの」
「ほオ――オ。お前が動物実験をやるチウのか」
「……アラ……そうじゃないんですの……」
「ふむ。どんな犬が欲しい」
「それが……あの。たった一匹欲しい犬があるんですの」
「ふむ。どんな種類の……」
「フォックス・テリヤなんですの。世界中に一匹しか居ない」
「ウワア。むずかしい註文じゃないか」
「ええ。ですからお願いするんですの」
「ふうん。どういうわけで、そんなむずかしい仕事を吾輩に……」
「それにはあの……ちょっとコミ入った事情がありますの。ちょっとコチラへお這入《はい》りになって……」
 と云ううちにイヨイヨ真赤になった。今度は平仮名の「く」の字から「し」の字に変った。打棄《うっちゃ》っておくと伊呂波《いろは》四十八文字を、みんな書きそうな形勢になって来たのには、持って生れたブッキラ棒の吾輩も負けちゃったね。今に「へ」の字だの、「ゑ」の字だのを道傍《みちばた》で書かれちゃ大変だと思ったから、悠々と帽子を取って一つ点頭《うなず》いてみせると、お合羽さんは振袖を飜えして門の内へ走り込んだ。お尻の上の帯をゆすぶりゆすぶり玄関の扉《ドア》を開いて、新派悲劇みたいな姿態《ポーズ》を作って案内したから吾輩も堂々と玄関のマットの上に片跛《かたびっこ》の護謨《ゴム》靴を脱いで、古山高帽を帽子掛にかけた。お合羽さんが自分の草履と、吾輩の靴を大急ぎで下駄箱に仕舞うのを尻目に見ながら堂々と応接間に這入った。
「失礼じゃがマントは脱がんぞ。下は裸一貫じゃから」
「ええ。どうぞ……」

     廃物豪華版

 応接間の構造は流石《さすが》に当市でも一流どころだけあって実に見事なものであった。天井裏から下った銀と硝子《ガラス》の森林みたような花電燈。それから黒|虎斑《ぶち》の這入った石造の大|煖炉《だんろ》。理髪屋式の大鏡。それに向い合った英国風の風景画。錦手大丼《にしきでおおどんぶり》と能面を並べた壁飾《かべかざり》。その下のグランド・ピアノ。刺繍の盛上った机掛。黄金の煙草容器。銀ずくめの湯の音をジャンジャン立てているサモワルに到るまで、よくもコンナに余計な品物ばかり拾い集めたものである。乞食の物置小屋じゃあるまいし……とすっかり軽蔑してしまったが……もっとも余計な品物を持っている点に於ては吾輩も負けないつもりだ。冠っている山高から、ボロ二重マント、穿いている長靴は勿論の事、その中に包まれている吾輩、鬚野房吉博士の剥身《むきみ》に到るまで一切合財が天下の廃物ならざるはなし。コンナ豪華な応接間の緞子《どんす》と真綿《まわた》で固めた安楽椅子の中に坐らせるのは勿体ないみたいなもんだが、しかし、その贅沢品の豪華版の中から生まれ出たような断髪の振袖令嬢が、その廃物ずくめのルンペンおやじに、大切な用があると仰言《おっしゃ》るんだから世の中は不思議なもんだ。一つ御免蒙って御神輿《おみこし》を卸《おろ》してみよう。そうして銀のケースの中から葉巻《ハヴァナ》を一本頂戴してみる事にしてみよう。
 断髪令嬢が素早く卓上のライタを取上げて器用に火をつけてくれた。その物腰をみるとチョット珈琲店《カフェー》の女給さんみたいな気がして、手が握りたくなったが止した。
 それから断髪令嬢は卓上のサモワルから馴れた手附で珈琲《コーヒー》を入れて、吾輩にすすめてくれたが、その容器を見ると、ここが断然カフェーでない事を覚らせられた。そこいらにザラにある珈琲茶碗じゃない。舶来最極上の骨灰[#「骨灰」に傍点]焼だ。底を覗いてみると孔雀型の刻印があるからには勿体なくもイギリスの古渡《こわた》りじゃないか。一つ取落しても安月給取の身代ぐらいはワケなく潰《つぶ》れるシロモノだ。吾輩はルンペンではあるが、有閑未亡人の侍従《ハンドバッグ》をやっていたお蔭でソレ位のことはわかる。亜米利加《アメリカ》の名探偵フィロ・ヴァンスみたいな半可通《はんかつう》とはシキが違うんだ。
「……わたくし……父が御承知の通りの身の上で御座いまして……わたくし迄も世間から見棄てられておりまして……お縋《すが》りして御相談相手になって下さるお方が一人も御座いませんの」
「フムフム……尤《もっと》もじゃ」
「みんな世間の誤解だから、心配する事はないと、父は申しておりますけど……」
 吾輩は鷹揚《おうよう》にうなずいて見せた。誤解にも色々ある。とんでもない売国奴が、無二の忠臣と誤解されている事もあれば、純忠、純誠の士が非国民と間違えられる事もある。警察に引っぱられたカフェーの女給が、華族の令嬢に見られる事もあれば、いい加減な派出婦が万引したお蔭で、貴婦人と間違えられる事もある世の中だ。吾輩なんかは乞食以下の掻攫《かっさら》いルンペンと誤解されている世界的偉人だ……と云ってやりたかったが、折角、花のような姿をして葉巻《ハヴァナ》や珈琲を御馳走してくれるものを泣かしても仕様がないと思って黙っていた。
「世間ではナカナカそう思ってくれないので御座いますの」
 吾輩は今一つうなずいた。そう云う令嬢の眼付を見ると、どうやら父親の無罪を確信しているらしい態度《ようす》である。吾輩はグッと一つ唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
「いったいお前の父親は、ほんとうに市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》ったんか」
「いいえ。断然そんな事、御座いません。この家《うち》を建てた請負師の人が、偶然にかどうか存じませんが、市会議事堂を建てた人と同じ人だったもんですから、そんな誤解が起ったんです。ですから妾《わたし》、口惜《くや》しくって……」
「成る程。そんならお前の父親が、この家の建築費用をチャント請負師に払うた証拠があるんかね」
「ええ。御座いましたの。そのほかこの応接間の品物なんかを買い集めた支払いの受取証なぞを、みんな母が身に着けて持っていたので御座いますが、それがどこかで盗まれてしまいまして、その受取証や何かがみんな反対党の人達の手に渡ったらしいんですの。ですから反対党の人達は大喜びで、そんな受取証を握り潰しておいて、父がそんなものを賄賂《わいろ》に貰ったように検事局に投書したらしゅう御座いますの。ですから検事局でも、その受取証を出せ出せって責められたそうですけど、父はその事に就いて一言も返事をしなかったもんですから、とうとう罪に落ちてしまいました」
「成る程、わかった。堕落した政党屋の遣りそうな事だ」
「父は、それですから、母にその証文を入れたバッグを出せ出せって申しますけども、どうしても母が出さなかったので御座います」
「成る程。それは又おかしいな」
「ええ。でもおしまいには、とうとう母が白状致しましたわ。亡くなります二三日前の晩に、すこし気が落ち附きますと、それまで肌《はだみ》を離さずに持っていたバッグを父に渡しました。けれども中味は空《から》っぽで御座いました。その時から一週間ばかり前にどこかで自動車に突飛ばされて倒れた拍子に、そのバッグの中味を誰かに見られて奪《と》られてしまったらしいんですって……その人が反対党の手先か何かだったに違いないって母は申しておりましたが……ほんとに申訳ない、口惜しい口惜しいって申しておりましたが……」
 そう云って吾輩を見上げた令嬢の眼に一点の露が光った。ナカナカ親孝行な娘だ。今度は抱上げて頭を撫でてやりたくなった。
「そこでアンタはそのお父さんに対する世間の誤解を晴らそうと思うているわけじゃね」
「そうなんですの……駄目でしょうかしら……」
 なかなか大胆な娘らしい。決心の色を眉宇《びう》に漲《みなぎ》らしている。

     犬のダニ

「さあ。ちょっとむずかしいなあ。世間の誤解という奴は犬のダニみたいなものじゃから……」
「まあ……犬のダニ……」
「そうじゃ。犬のダニみたいに、勝手に無精生殖をしてグングン拡がって行くもんじゃからね。皮膚の下に喰込んで行くのじゃから一々針で掘った位じゃ間に合わんよ。ウッカリ手を出すとこっちの手にダニがたかって来る」
「まったくですわねえ」
「ジャガ芋の茹《ゆ》で汁で洗うと一ペンに落ちるもんじゃが」
「まあ。ジャガ芋をどう致しますの」
「アハハ。それは犬のダニの話じゃ。鉄筋コンクリートなんぞに喰い込んだダニなんちいうものはナカナカ頑強で落ちるもんじゃない。七十五日ぐらいジッと辛抱しているとダニの方がクタビレて落ちてしまう事もあるが……」
「それがその七十五日なんか待ち切れないので御座いますの。その中《うち》でも或るタッタ一人の方の誤解だけは是非とも解いてしまいませんと、わたくしの立場が無くなるんですの。……でも……それがタッタ一匹の犬から起った事なのですから……スッ……スッ……」
 令嬢の眼からポロリポロリと光る水玉が辷《すべ》り落ち初めた。
 どうも考えてみると変った娘があればあるものだ。通りがかりのルンペン親爺《おやじ》を応接間に引っぱり込んで最極上の葉巻《ハヴァナ》と珈琲《コーヒー》を御馳走して、生命《いのち》よりも大切な涙をポロポロ落して見せるなんて、だいぶ常識を外《はず》れている。ことによるとこの少女はキチガイの一種である早発性痴呆かも知れないと思った。
「ハハア。面白いワケじゃな……一匹の犬に関係している。タッタ一人の誤解が……」
「そうなんですの……そのタッタ一人の方に誤解される位なら妾死んだ方がいいわ……スッ……スッ……」
「ちょっと待ってくれい。もうすこし落付いてユックリ事情を話してみなさい」

     お惚気
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