超人鬚野博士
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)身上話《みのうえばなし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時速百二十|節《ノット》、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)舶来最極上の骨灰[#「骨灰」に傍点]焼だ。
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     吾輩のこと

 ……何だ……吾輩の身上話《みのうえばなし》を速記にして雑誌に掲載するから話せ……と云うのか。
 フウム。それは話さん事もないが、しかし、選《よ》りに選って又、吾輩みたいなルンペン紳士……乞食と泥棒の間《あい》の子みたいな奴の話を、雑誌に公表する必要がドコにあるのかね。吾輩以上に立派な地位あり、名誉ある人間が、天の星の如く、地の砂の如く天下に充満しているではないか。そんな奴とは正反対に、どこにでも寝る、何でも着る、何でも喰う、地位とか、家柄とか、人格とかいうものが一つも無い点に於いて天下広しと雖《いえど》も、吾輩ぐらい不名誉な人間は無いだろう。そんな薄見《うすみ》っともない人間の話が問題になるのかね一体……エエ……何だと……?
 しかし吾輩はソンナにも有名なのかノー……。
 フーム。有名にも何にも「鬚野《ひげの》博士」の名前を知らない者は日本中にタダの一人も居ない。吾輩が日本に存在しているために英国も、米国も、露西亜《ロシア》も、日本に挑戦し得ないでいる。日露戦争以後に吾輩がドンナ科学的の発明を日本の軍部に提供して、ドンナ新鋭の武器を内々で取揃えさしているか判明《わか》らないから……成る程のう……それは事実だ。毛唐《けとう》の奴等もよく知っとるのう。日露戦争の時にヨッポド懲《こ》りたと見えてアラユル密偵《スパイ》を使って吾輩の身辺《みのまわり》を探らせているらしいてや。事によると現在、海軍で作りよる一人乗、魚形水雷《ぎょけいすいらい》ボートが吾輩の発明である事を探り出しとるかも知れんのう。ナアニ、饒舌《しゃべ》っても大丈夫だよ。毛唐が真似して作っても乗る奴が一匹も居る気遣いがないし、防禦《ぼうぎょ》の方法が全く無いんだからね。時速百二十|節《ノット》、航続距離二万|海里《かいり》と云ったら大抵わかるだろう。その動力が問題なんだからね。その動力が将来の日本軍のタンク、飛行機に十倍以上の能率を上げさせるんだから恐ろしいだろう。日本国民たるもの枕を高うして可なりだ。つまり吾輩の人格が、全人類を押え付けている……吾輩が、こうしてボロマントを着て、ハキダメから拾った片チンバの護謨《ごむ》靴を引きずって、往来をウロウロしている限り世界の外交界はこの「鬚野房吉《ひげのふさきち》博士」の存在を無視する訳に行かんと考えている……吾輩を目して新興日本のマスコット……松岡全権以上の偉人として恐れ戦《おのの》いていると云うのか……。
 アッハッハッハッハッ……宜しい。大いに宜《よろ》しい。気に入ったぞ。それでは一つ吾輩の正体を明らかにして全世界三十億の蛆虫《うじむし》共をパンクさせてくれるかな。とにかく向うの草原《くさばら》へ行こう。あの大きな土管の中で話そう。イヤイヤ。原稿料なんか一文も要らん。上等の日本酒と海苔《のり》と醤油があれば宜しい。鮠《はや》の生乾《なまび》が好きなんだが、コイツはちょっと無かろうて……。

     感化院脱出

 世間の奴はよく吾輩をキチガイキチガイというが、その位のことはチャンと考えているんだよ。吾輩の過去といったって極めて簡単だ。両親の名前や顔は勿論のことそんなものが居たか居なかったかすら知らないんだから多分、精神的にも物質的にも生れながらのルンペンなんだろう。孫悟空と同じに華果山《カカサン》の金の卵から生れた事だけは確実……だろうと思うんだが……アハハ洒落《しゃれ》じゃないよ。
 それから十四の年《とし》にO市の感化院を脱出《ぬけだ》して無一文で女郎買いに行った。ドッチも喜ぶ話だから多分、無料《ただ》だろうと思って行ったのが一生のアヤマリ。女郎屋の敷居を跨《また》がないうちに吾輩の帯際《おびぎわ》を捉まえて、グイグイと引っぱり戻した奴が居る。鯉のアタリよりもチット大きいなと思って振返ってみると、タッタ今表口に立って……イラッシャイイラッシャイをやっていた豚みたいな男だ。感化院を出がけに兄貴分から注意されて来た牛太郎《ぎゅうたろう》という女郎屋の改札|掛《がかり》はコイツらしい。聞いた通りに派手なダンダラの角帯《かくおび》を締めていやがる。
「オイ、兄さん。銭《ぜに》を持っているかね」
 と云ううちにその改札屋が吾輩の襟《えり》番号をジイッと見やがった時にはギョッとしたね。アンマリ気が急《せ》いていたもんだからウッカリして引剥ぐのを忘れていたもんだが、見破られたと思ったから吾輩はイキナリ焼糞《やけくそ》になってしまった。
「馬鹿。銭があったら嬶《かかあ》を持つワイ。感化院の房公《ふさこう》を知らんケエ」
 とタンカを切ってやったら牛太の奴吾輩の襟首を掴《つか》んでギューギューと小突きまわした。序《ついで》に拳固《げんこ》を固めて吾輩の横面《よこつら》を一つ鼻血の出る程|啖《く》らわしたから、トタンに堪忍袋の緒が切れてしまった。さもなくとも燃え上るようなホルモンの遣《や》り場に困っている吾輩だ。襟首を掴んでいる牛太郎の手の甲をモリモリと噛み千切《ちぎ》りざま、持って生まれた怪力でもって二十貫ぐらいある豚野郎を入口の塩盛《しおもり》の上にタタキ付けた。それから失恋のムシャクシャ晴しに、駈付けて来た二三人の人相の悪い奴を向うに廻わして、下駄を振上げているところへ、通りかかった角力取《すもうとり》の木乃伊《ミイラ》みたいな大きな親爺《おやじ》が仲に這入《はい》って止めた。止めたといってもその親爺が無言のまま、片手に吾輩の襟首を掴んで、喧嘩の中から牛蒡《ごぼう》抜きに宙に吊るしたまま下駄を穿《は》かしてくれたので万事解決さ。相手のゴロツキ連中もこの親爺の顔を知っていたと見えて、猫みたいにブラ下がっている吾輩に向ってペコペコお辞儀していたが、可笑《おか》しかったよ。
 それからその親爺に連れられて、そこいらの河ッ縁《ぷち》の綺麗な座敷に通されてみるとイヨイヨ驚いたね。その親爺が坐っていても吾輩の立っている高さぐらいあるんだ。どこで胴体が継足《つぎた》してあるんだろうと思って荒っぽい縞《しま》のドテラを何度も何度も見上げ見下した位だ。おまけにツルツル禿《はげ》の骸骨みたいに凹《へこ》んだ眼の穴の間から舶来のブローニングに似た真赤な鼻がニューと突出ている。左右の膝に置いた手が分捕《ぶんどり》スコップ位ある上に、木乃伊《ミイラ》色の骨だらけの全身を赤い桜の花と、平家蟹の刺青《ほりもの》で埋めているからトテモ壮観だ。向い合っているうちに無料《ただ》でコンナ物を見ちゃ済まないような気がして来た。
 そこで吾輩は生れて初めて鰻の蒲焼なるものを御馳走になったが、その美味《うま》かったこと。モウ吾輩は一生涯、この親分の乾児《こぶん》になってもいいとその場で思い込んでしまったくらい感激しちゃったね。
 それからポツポツ様子を聞いてみると、その木乃伊《ミイラ》親爺の商売は見世物師《みせものし》なんだそうだ。成程と子供心に感心|仕《つかまつ》ったね。
「ヘエ。オジサンが見世物になるのけエ」
 と訊いてやったら、義歯《いれば》を抓《つま》んでいた親爺が眼を細くしてニコニコした。ピストルの頭を分捕スコップで撫でまわしながら吾輩に盃を差した。
「……マアマア。そんげなトコロじゃ。どうじゃい小僧。ワシは軽業《かるわざ》の親分じゃが、ワシの相手になって軽業がやれるケエ」
「軽業でも、手品でも、カッポレでも都踊りでも何でもやるよ。しかしオジサン。力ずくでワテエに勝てるけえ」
「アハハハ。小癪《こしゃく》なヤマカン吐《つ》きおるな。木乃伊《ミイラ》の鉄五郎を知らんかえ」
「知らんがな。どこの人かいな」
「この俺の事じゃがな」
「ああ。オジサンの事かい」
「ソレ見い。知っとるじゃろ。なあ」
「知らんてや。他人のような気もせんケンド……ワテエは強いで。砂俵の一俵ぐらい口で啣《くわ》えて行くで……」
「ホオー。大きな事を云うな。その味噌ッ歯で二十貫もある品物が持てるものかえ」
「嘘やないで。その上に両手に一俵ずつ持ってんのやで……」
「プッ……小僧……酒に酔うてケツカルな」
「ワテエ。酒に酔うた事ないてや」
「そんならこの腕に喰付いてみんかい」
 木乃伊《ミイラ》の爺さん一杯機嫌らしく、片肌を脱いで二の腕を曲げて見せると、真四角い木賃宿《きちんやど》の木枕みたいな力瘤《ちからこぶ》が出来た。指で触《さわ》ってみると鉄と同じ位に固い。
「啖付《くいつ》いても大事ないかえ」
「歯が立ったなら鰻を今《も》一パイ喰わせる……アイタタタ……待て……待てチウタラ……」
 廊下を通りかかった女中が吃驚《びっくり》したらしく襖《ふすま》を開けたが、木乃伊《ミイラ》親爺の二の腕に付いてる濡れた歯型を見ると、呆気《あっけ》に取られたまま突立っていた。
 親爺は急いで肌を入れた上から二の腕を擦《さす》った。吾輩に喰付かれたが、嬉しいらしく女中を振返ってニコニコと笑った。
「……鰻を、ま一丁持って来い。それからお燗《かん》も、ま一本……恐ろしい歯を持っとるのう。ええそれから……そこで給金の註文は無いかや……」
「無いよオジサン。毎日鰻を喰べて、女郎買いに行かしてもらいたいだけや」
 木乃伊《ミイラ》親爺は口をアングリ開《あ》いたまま、眼をショボショボさせていたが、それで話がきまったらしかった。

     少年力持

 それから後《のち》、三四年ばかりの間、吾輩は毎日毎日、お祭りの見物の中で、生命《いのち》がけの芸当をやった。金ピカの猿股《さるまた》一つになった木乃伊《ミイラ》親爺の相手になって、禿頭《はげあたま》の上に逆立ちしたり、両足を捉まえて竹片《たけぎれ》みたいにキリキリと天井へ投げ上げられたり、バスケットボールみたいに丸くなって手玉に取られたりするのであったがトテモ面白かった。吾輩みたいな身体《からだ》を不死身と云うのだろう。イクラ遣り損なって怪我《けが》をしても痛くもなければ血も出ない上に、すぐに治癒《なお》る。見物の眼に決して止まらないから便利だ。しまいには木乃伊《ミイラ》親爺がヤケになったらしく、吾輩を掴まえて死ねかしの猛烈な芸当をやらせ続けたが、どうしても死なないので驚いているらしかった。
 そればかりじゃない。吾輩は別にタッタ一人で時間つなぎに少年|力持《ちからもち》をやった。自動車に轢《ひ》かれたり、牛の角を捉まえて押しくらをしたり、石ころを噛み割ったり、錻力《ぶりき》を引裂いたりする片手間に、振袖を着た小娘に化けて……笑っちゃいけない、これでも鬚《ひげ》を剃ると惚れ惚れするような優男《やさおとこ》だぞ……手品の手伝いみたいなものを遣っているうちに、困った事が出来た。
 ……というのはホカでもない。前にも云った通り、コツコツの木乃伊《ミイラ》親爺と、その頃まではまだ紅顔の美少年だった吾輩が組んで、大車輪で演出する死物狂いの冒険軽業が、吾輩の第一の当り芸であると同時に、この一座の第一の呼物であったんだが、その芸当の最中の話だ。毎日毎日一度|宛《ずつ》、芸当の小手調べとして親爺と揃いの金ピカの猿股を穿いた丸裸体《まるはだか》の吾輩が、オヤジの禿頭の上に逆立ちをする事になっていたんだが、そいつを毎日毎日繰返しているうちに、そのオヤジの禿頭のテッペンにタッタ一本黒い、太い毛がピインと生えているのに気が付いたもんだ。
 世の中というものは妙なものだね。その黒い毛の一本が、木乃伊《ミイラ》親爺の生命《いのち》の綱で、この一座の運命の神様だった事を、その時まで夢にも気付かなかった吾輩は、その毛を見るたんびに気になって気になって仕様がないようになった。第一いつ見ても真直にピインと垂直に立っているのが不思議で仕様がない。伸びもしなければ縮みもし
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