ない。波打ちも、倒おれも、折れも曲りもしないのだから癪《しゃく》に障《さわ》る。第二に、ほかの処に生えている毛はミンナ真白いのに、この毛一本だけが黒いのだから怪《け》しからん。まるで外国の廻わし者みたいな感じだ。最後に気に入らないのは、その毛の尖端《さき》が、ちょうど避雷針みたいに、吾輩の鼻の頭と真向いになっている事で、逆立ちをするたんびにその毛を見ると、鼻の頭が思わずズーンと電気に感じて来る。何だってこのオヤジはコンナ気まぐれな毛をタッタ一本、脳天の絶頂にオッ立てているのだろうと思うと、寝ても醒めても苦になって、イライラして仕様がなくなった。しまいには毎日一度|宛《ずつ》その禿頭の上で逆立ちするのが死ぬ程イヤになって来た。
そこで吾輩はトウトウ決心をして或る日の事、幕前の時間を見計《みはか》らって木乃伊《ミイラ》親爺に談判してみた。
「親方。ほかの芸当なら何でも我慢するが、アノ親方のアタマの上の逆立ちだけは勘弁してくれんかい」
親方は面喰らったらしかった。赤い鼻をチョット抓《つま》んで眼を丸くした。
「何で、そんげな事を云い出したんかい」
吾輩は頭を掻《か》いた。マサカにタッタ一本の毛が恐ろしく、逆立ちが出来ないとは云えないからスッカリ赤面してしまった。
「何でチウ事もあらへんけんど……アレ位のこと……アンマリ見易《みやす》うて見物に受けよらんけに、止めとうなったんや」
「馬鹿奴《ばかめ》え。何を吐《こ》きくさる。ワレのような小僧に何がわかるか。あの逆立ちは芸当の小手調べチウて、芝居で云うたらアヤツリ三番叟《さんばそう》や。軽業の礼式みたようなもんやけに、ほかの芸当は止めてもアレだけは止める事はならん。それともこの禿頭が気に入らん云うのか」
と云ううちにオヤジは渋臭い禿頭を吾輩の鼻の先に突付けて平手でツルリと撫でて見せた。それにつれて頭の上の黒い毛がピインと跳ね返って吾輩の鼻の頭に尖端を向けた。トタンに吾輩の全身がズウーンとして、お尻の割れ目がゾクゾクと鳥肌だって来た。
吾輩は、思わずその禿頭を平手で押除《おしの》けた……と思ったが、気が付いた時には、楽屋の荒板の上に横たおしにタタキ付けられていた。アトから考えると親方の虫の居処《いどころ》がその日に限って日本一悪かったらしいね。
それから間もなく二人は、満場の喝采を浴びて見物の前に跳り出た。むろんその時はタッタ今の経緯《いきさつ》も何も忘れて、僅かの時間、親方の頭の上で辛抱する気になっていたもんだが、その中《うち》に例の通り、禿頭の上で逆立ちをしてみると……妙だったね。
その時の気持ばっかりは今から考えてもわからないんだが、アレが魔が差したとでもいうもんだろうかね。ツイ自分の鼻の先に突立っている毛の尖端《さき》を見ると、自分では毛頭ソンナ気じゃないのに、両手がジリジリと縮んで、赤茶色の禿頭肌《はげはだ》が吾輩の唇に接近して来た。そうして、やはり何の気もなく、その禿《はげ》のマン中の黒い毛を糸切歯の間にシッカリと挟んでグイと引抜いたもんだ。
「ギャアッ……ヤラレタッ……」
と云う悲鳴がどこからか聞こえたように思ったが、全く夢うつつだったね。吾輩の小さな身体が禿頭の上から一間ばかり鞠《まり》のようにケシ飛んで、板張の上に転がっていた。ビックリして跳ね起きてみると、直ぐ眼の前のステージの上に、木乃伊《ミイラ》の親方がステキもない長大な大の字を描いて、眼を真白く剥《む》き出したまま伸びている。ゴロゴロと喘鳴《ぜんめい》を起していたところから考え合わせるとあの時がモウ断末魔らしかったんだがね。
アトから聞いたところによると、親方の木乃伊《ミイラ》親爺は平生から吾輩を恐ろしい小僧だ恐ろしい小僧だと云っていたそうだ。感化院から出て来たばかりの怪物だから何をするか、わからない奴だ。気に入らないと俺の咽喉笛《のどぶえ》でも何でも啖《く》い切りかねないので、毎日毎日俺に手向い出来ない事を知らせるつもりで、思い切りタタキ散らしてやるんだが、実は恐ろしくて恐ろしくて仕様がないから、ああするんだ……と云っていたそうだが、してみると吾輩が毛の根をチクリとさせたのを親方は、吾輩が例の手で禿頭のマン中へカブリ付いたものと思ったらしいね。その後の医師の診断によると、老人の過労から来る、急激な神経性の心臓|痲痺《まひ》というのだったそうだが、実に意外千万だったね。そんな馬鹿な事がといったって、木乃伊《ミイラ》の親方は、総立ちの見物人と、楽屋総出の介抱と、吾輩の泣きの涙の中《うち》に、ホコリダラケの板張りの上で息を引取ったのだから仕方がない。
ところで問題は、それからなんだ。楽屋に運び込まれた親方の死骸に取付いてオイオイ泣いているうちに、片っ方で仲間を集めてボソボソ評議していた拳固《げんこ》の梅という奴が、いつの間にか立上って来て、何も知らない吾輩の横っ面《つら》をガアンと一つ喰らわしたもんだ。このゲンコの梅という奴は、ずっと前に大人の力持をやって相当人気を博していたもんだが、アトから来た少年力持の吾輩に人気を渫《さら》われてスッカリ腐り込んでいた奴だ。むろん糞力《くそぢから》がある上に、拳固で下駄の歯をタタキ割るという奴だったから痛かったにも何にも、眼の玉が飛び出たかと思った位だった。だから、いつもの吾輩だったら文句無しに掴みかかるところだったが、親方の死骸を見て気が弱っていたせいだったろう、起上る力も無いまま茣蓙《ござ》の上に半身を起して、仁王立《におうだ》ちになっている梅公のスゴイ顔を見上げた。見ると吾輩の周囲には、梅をお先棒にした座員の一同が犇々《ひしひし》と立ちかかっている様子だ。これは前に一度見た事の在るこの一座のマワシといって一種の私刑《リンチ》だね。それにかける準備だとわかったから、吾輩はガバと跳ね起きて片頬を押えたまま身構えた。
「……ナ……何をするのけえ」
「何をするとは何デエ。手前《てめえ》が親方を殺しやがったんだろう」
「親方の頭のテッペンから血がニジンでいるぞ」
「あしこから小さな毒針を舌の先で刺しやがったんだろう。最前|殴《は》り倒おされた怨《うら》みに……」
「ソ……そんな事ねえ……」
「嘘|吐《こ》け。俺あ見てたんだぞ……」
吾輩は実をいうとこの時に内心|頗《すこぶ》る狼狽《ろうばい》したね。タッタ今歯で引抜いた黒い毛は、どこかへ吐き出すか嚥込《のみこ》むかしてしまっている。よしんば歯の間に残っていたにしたところが、アンナ黒い毛がタッタ一本、親方の禿頭の中央《まんなか》に生《は》えている事実を知っていたものは、事によると吾輩一人かも知れないのだから、トテモ証拠になりそうにない。のみならずコンナ荒っぽい連中は一旦そうだと思い込んだら山のように証拠が出て来たって金輪際、承知する気づかいは無いのだから、吾輩はスッカリ諦らめてしまった。コンナ連中を片端《かたっぱし》からタタキたおして、逃げ出すくらいの事は何でもないとも思ったが、親方の死骸を見ると妙に勇気が挫《くじ》けてしまった。
「……ヨシ……文句云わん。タタキ殺してくんな。……その代り親方と一所に埋めてくんな」
「……ウム。そんなら慥《たし》かに貴様が親方を殺したんだな」
「インニャ。殺したオボエは無い」
「この野郎。まだ強情張るか……」
と云ううちに、青竹が吾輩の横っ腹へピシリと巻付いた。
「警察へ渡す前に親方のカタキを取るんだ。覚悟しろ……」
「何をッ」
と吾輩は立上った。親方のカタキという一言が吾輩を極度に昂奮させたのだった。
鞭《むち》だの青竹だの丸太ん棒だの、太い綱だのが雨霰《あめあられ》と降りかかって来る下を潜った吾輩はイキナリ親方の死骸を抱え上げて、頭の上に差上げた。
「サア来い」
これには一同面喰ったらしい。獲物《えもの》が無いと思ってタカを括《くく》っていた吾輩が、前代未聞のスゴイ武器を振り翳《かざ》したのだからね。一同が思わずワアと声を揚げて後《あと》へ退《さが》った隙《すき》に吾輩は、そこに積上げて在るトランクを小楯に取って身構えた。ドイツコイツの嫌いは無い。一番最初にかかって来た奴を親方の禿頭でタタキ倒おしてやろうと思っているところへ、思いがけない仲裁が現われた。
未亡人に救われて
それはこの頃、毎日のように正面の特別席の中央に陣取って、座員全部の眼に付いていたお客で、あれは西洋人だろうか、日本人だろうか……お嬢さんだろうか、それとも奥さんだろうかと問題のタネになっていたシロモノであったが、近付いて来たのを見ると、何というスタイルの洋装か知らないが、その頃では眼を驚かすハイカラであったろう。真赤な血のような色をした下着に、薄い、真黒い上服《うわふく》をピッタリと着込んで、丸い乳と卵型《たまごなり》のお尻をタマラナイ流線型にパチパチと膨《ふく》らましている。それが白い羽根付きの黒いお釜帽《かまぼう》からカールをハミ出させて、白靴下のハイヒールの上にスラリと反《そ》り返って、縁《ふち》無しの鼻眼鏡をかけたところは、ハンカチの箱から脱出《ぬけだ》して来たような日本美人だ。年は二十ぐらいに見えたが、実は二十五か六ぐらいだったろう。見物席からイキナリ駈上《かけあが》って来たらしく頬を真赤にしてセイセイ息を切らしていたが、吾輩が振翳《ふりかざ》している死骸なんかには眼もくれずに、ハンドバッグの中から分厚い札束を掴み出すと、みんなの鼻の先へビラビラさせて見せまわしながら、ニッコリと笑った。銀鈴のような嬌《なま》めかしい声を出したもんだ。
「……サア……皆さん。この坊ちゃんを妾《わたし》に売って頂戴。千円上げます。ちょうど今日中の上り高《だか》ぐらいあるでしょ。親方へ上げる妾の香奠《こうでん》よ。ね……いいでしょ……いけないの……。いいわ。どうしてもこの坊ちゃんを殺すと云うんなら、妾にも覚悟があるわ。御覧なさい。この小ちゃな七連発のオモチャに物を云わせますから……妾はこの坊ちゃんに惚れてるんですからね。そのつもりで話をきめて頂戴……サアサア。警察《サツ》が来ると話が元も子も無くなるわよ。サアサア。早いとこ早いとこ。オホホホホホ」
みんなこの別嬪《べっぴん》さんに呑まれてしまったらしい。イツの間にかメイメイに持っていた獲物を取落していた。吾輩もソロッと親方の死骸を下して額の汗を拭いていた。
こうなると話は早い。廿分と経たないうちに、金モール付《つき》赤ビロードの舞台服を着た吾輩は、今の別嬪さんと一緒に、その頃まで絶対に珍らしかった自動車に同乗して、どこか郊外の山道らしい処をグングンと走っていた。つまり吾輩はこの、日野亜黎子《ひのありこ》という金持の未亡人に買取られて、郊外の別荘に匿《かく》まわれて、その未亡人のハンドバッグボーイにまで出世したもんだ。禿頭のオモチャから一躍、別嬪のオモチャにまで出世した訳だね。
イヤ、出世だよ。たしかに出世だよ。堕落じゃないよ。第一|昨日《きのう》までは毎日何度となくタタキ店の瀬戸物みたいに荒板の上にタタキ付けられていた奴が、今日は正反対に真綿《まわた》ずくめの椅子やクションの上でフワフワフワフワと下にも置かず歓待される訳だからね。人生は京の夢、大阪の夢だ。電光朝露《でんこうちょうろ》応作《おうさ》如是観《にょぜかん》だ。まあ聞け……そんな経緯《わけ》で吾輩は、その未亡人の手に付くと、お母さんだか妹だか訳のわからないステキな幸福に恵まれながら学問を教《おそ》わった。吾輩を立派な青年紳士に仕立てて見せるという未亡人の意気込みでね……何でもその日野亜黎子夫人の旦那様だった男は、日野|有三九《ゆうさく》という名前でチャチな探偵小説を書いて、巨万の富を積んだあげく、妻君の精力絶倫に白旗を揚げたような……そうして揚げたくないような神経衰弱の夢みたいなエタイのわからない遺書を書いてアダリン自殺を遂げた。自分が探偵小説になっちゃったというダラシのない男だったそうだが、そのお庭の片隅に立っている図書館の中には美事な寝室を作って、あらゆる科学書類
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