のセパードで、お誂《あつら》え向きに革の細い紐で引っぱられている。しかも引っぱっている奴は四十五六ぐらいに見える貴婦人だ。
吾輩は元来、貴婦人気取の女が嫌いでね。都合よくエライ親父かエライ亭主に取当ったのを自慢にして、ほかの女とは身分が違うような面付《かおつき》をしている……その根性がイヤなんだ。貴婦人と普通の女の違いは、債券に当った奴と当らない奴だけの違いじゃないか。
しかもその身分違いをハッキリさせるために、平民が寄付けないようなドエライ扮装を凝《こ》らしやがる。薄黒いドーナツ面《づら》へ蒟蒻《こんにゃく》の白和《しらあ》えみたいに高価《たか》いお白粉《しろい》をゴテゴテと塗りこくる。自分の鼻が慣れっこになればなるほど、強烈な香水を振りかけるから、何の事はない、塗り立てのコールタールだ。目の見えない奴は新しいポストと間違えて避《よ》けて行くだろう。気の強い奴は処女に見せかける了簡と見えて、頬ペタをベタベタと糞色《うんこいろ》に塗上げている。おまけに豚の尻《けつ》みたいな唇を鮮血色に彩《いろど》っているから、食後なんかにお眼にかかるとムカムカして来るんだ。特権階級を気取るつもりらしく、ヤタラに銀狐の剥製か何かを首に巻いているが、その銀狐の面付《つらつき》の方が、直ぐお隣の御面相よりもよっぽどシャンなんだから滑稽じゃないか。のみならず、せめてブルドッグでも召連れていれば多少の参考になるところだが、選《よ》りに選って眉目清秀のセパードなんかを引っぱっているからイヨイヨ以て助からない。
冒険大泥棒
その繁華な交叉点で吾輩がぶつかったのは、ちょうどその助からない種類の貴婦人だった。全体にムクムクと膨《ふく》れ返って、大水で流れて来たか、花火から落ちて来たみたいな四十五六の処女らしい身装《みなり》の奴が、ゴーストップの開くのを待っているらしく、航空郵便の横に突立って、白ペンキ色の襟首と、毒々しいウンコ色の横顔を見せている。これじゃ何ともなくともチョット悪戯《いたずら》をしてみたくなる恰好じゃないか。
しかし吾輩は考えたよ。
ここは恐ろしく場所が悪い。ちょっとでも通行人に気付かれたら運の尽きだと思ったが……しかしだ。「天の与うるところのものを取らずんば、取らざるに勝《まさ》る後悔あり」とね、「機会は再び来らず」という鼠小僧の遺訓を思い出したものだから一つ思い切って決行した。貴婦人が引っぱっている革の紐のたるんだところを目がけて、例の鋏でチョン切る。トタンに例の手で犬をポケットに納めるという離れ業を試みた……。
……つもり……だったがアニ計《はか》らんやだ。天なる哉《かな》、命《めい》なる哉だ。アニが計らずに弟が計ったものと見えて、革の紐をチョン切ったトタンに向うのゴーストップが青に変った。トタンに待構えていた貴婦人が向うへ歩き出す。トタンに手の革紐が軽くなったのに気が付いて振返る。トタンに吾輩が犬の首ッ玉を吊るしてポケットに半分納めかけている現場が見えた。トタンに失策《しま》った……と思った吾輩が、その貴婦人のヨークシャ面《づら》を睨んでニタニタと笑って見せた。トタンにその貴婦人が、鳥だか獣だか、わからない声をあげてフラフラと前へのめった。トタンに横合いから辷《すべ》って来たドッジの箱自動車《セダン》が、その貴婦人の在りもしない鼻の頭を、奇蹟的に突飛ばして停車した。トタンに貴婦人の意識にも奇蹟のブレーキが掛かったらしく両足を上にしてヒャーッと顛覆《てんぷく》する。トタンに吾輩が投出したセパードが御主人のお尻の処を嗅ぎまわって悲し気に吠え立てる。トタンに通りかかった野次馬がワアーと取巻く。そこいら中がトタンだらけになっちゃって、何がどうして、どうなったんだかテンヤワンヤわからない状態に陥ってしまった。
これを見た吾輩はホッとしたね。この調子なら吾輩が仕出かした事とは誰も気付くまい……と思ったから何喰わぬ顔で野次馬を押分けた。その伸びちゃっている貴婦人の頭の処へ近付いて大急ぎで脈を取って見た。それから瞼《まぶた》を開いて太陽の光線を流れ込まして見ると、茶色の眼玉を熱帯魚みたいにギョロギョロさしている。たしかに、まだ生きている事がわかったので今一度ホッとしたね。
「ワア……テンカンだテンカンだ……」
「そうじゃねえ、行倒れだ」
「何だ何だ。乞食かい……」
「ウン。乞食が貴婦人を診察しているんだ」
「……ダ……大丈夫ですか」
とドジを踏んだ運転手が、吾輩の顔を覗き込んだ。青白い銀狐みたいな青年だ。
「何だ何だ。死んだんか。怪我《けが》をしたんか」
と馳付《はせつ》けて来た交通巡査が同時に訊いた。察するところ、運転手の方は生きている方が好都合らしく、巡査の方はこれに反して、死んだ方が工合がいいらしい口ぶりだ。面喰らったセパードは、まだ貴婦人のお尻の処を嗅ぎまわってドッチ附かずに吠えている。
「どうしたんだ。ヘタバッたのかい」
「ナアニ。鼻が千切《ちぎ》れたんだよ。キット……俺あ見てたんだが」
「ベリベリッと音がしたじゃねえか。助からねえよ。急所だから……トテモ……」
何かと云っているところを見ると野次馬の連中も巡査と同感らしい。人生貴婦人となる勿《なか》れだ。
しかし厳正なる医師の立場に居る吾輩は、遺憾ながら運転手君に味方しなければならない事をこの時、既に既に自覚していた。貴婦人は最早《もはや》、呼吸《いき》を吹返している。ただキマリが悪いために狸の真似をしている事実を、吾輩はチャンと診断していたのだから止むを得ない。
吾輩はダカラ勿体《もったい》らしく咳払いを一つした。
「……エヘン……これは大丈夫助かります。大急ぎで手当をすればね。脳貧血《ヒルンアネミー》と、脳震盪《ゲヒルンエルシュテルンシ》が同時に来ているだけなんですから……」
「何かね。君は医師かね」
と新米らしい交通巡査が吾輩を見上げ見下した。吾輩は今一つ……エヘン……と大きな咳払いをした。それから悠々と長鬚を扱《しご》いて見せた。
「そうです。大学の基礎医学で仕事をしている者です。天狗猿……イヤ。鬼目教授に聞いて御覧になればわかるです。……そんな事よりも早くこの女の手当をした方がいいでしょう。今、処方を書いて上げますから……誰か紙と鉛筆を持っておらんかね」
「ハ。……コ……ここに……」
と云ううちにドッジの運転手が、わななく手で差出した手帳の一枚を破いた吾輩は、サラサラと鉛筆を走らせた。
「早くこの薬を買って来たまえ。間に合わないと大変な事になるぞ」
「……か……かしこまり……」……ました……と云わないうちに運転手はエンジンをかけたままの運転台に飛乗った。アッという間に全速力《フルスピード》をかけて飛出した。
チャッカリ小僧
「……ウヌ……逃げたナ……」
と云ううちに交通巡査も、物蔭《ものかげ》に隠しておいた自働自転車を引ずり出して飛乗った。爆音を蹴散《けち》らして箱自動車《セダン》の跡を追った。見る見るうちに街路《まち》の向うの……ズウット向うの方へ曲り曲って見えなくなってしまった。
呆気《あっけ》に取られて見送っていた野次馬連は、そこでやっと吾に帰ったらしく、顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。吾輩も可笑《おか》しくなったので、血を滴《た》らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。
「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」
と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。
「無理だよソレア……先生。死んでんだもの……」
皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後《うしろ》から一枚の紙片《かみきれ》を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。
「先生。これあ今の紙じゃないですか」
「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石《さすが》に眼が早い」
「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」
鳴りを鎮《しず》めていた群集が又笑い出した。
「ウーム。豪《えら》いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」
「……そ……そんなんじゃありません」
「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭《ぜに》が這入《はい》っているだろう」
「だって……だって。そんな事していいんですか」
「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」
と背後《うしろ》の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。
「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は……」
「うん。それはトンプクと読むんだ」
「トンプク……ああわかった。頓服《とんぷく》か……ええと……メートル酒十銭……」
「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」
「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」
「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は……チャッカリしている。それは硼酸軟膏《ほうさんなんこう》と万創膏《ばんそうこう》と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」
「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生……」
「何が駄目だ」
「チャアチャア。このバッグの中には銭なんか一文も無《ね》えや。若い男の写真ばっかりだ。ウワア……変な写真が在ライ」
と云いも終らぬうちに塵埃《ほこり》だらけになって転がっていた狸婦人が鞠《まり》のように飛上った。茶目小僧の手から銀色のバッグを引ったくるとハンカチで鼻を押えたまま一目散に電車道を横切って、向うの角のサワラ百貨店の中に走り込んで行った。アトから犬が主人の一大事とばかり一直線に宙を飛んで行ったが、その狸婦人の足の早かったこと……。
野次馬がドッと笑い崩れた。
「ナアンダイ。聞いてやがったのか」
「向うの店で又引っくり返《けえ》りゃしねえか」
「行って見て来いよ。小僧。引っくり返《け》えってたらモウ一度バッグを開けてやれよ。中味をフン奪《だ》くって来るんだ。ナア小僧……」
「なあんでえ。買わねえ薬が利いチャッタイ」
ワアワアゲラゲラ腹を抱えている中を、吾輩は悠々と立去った。全く助かったつもりでね。
ところが助かっていなかった。女の一念は恐ろしいもんだ。それから間もなくの事だ……。
混凝土《コンクリート》令嬢
「アラッ。鬚野《ひげの》さん……鬚野先生……センセ」
どこからか甲高い、少々|媚《なま》めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序《ついで》に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。
吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠《かぶ》り直した。裸体《はだか》一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。
通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二《ふ》た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況《いわ》んやそれが若い、媚《なま》めかしい声なるに於いてをや……といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。
それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株《おおあたまかぶ》で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》り過ぎた酬《むく》いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して
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