しない事が実験済みなんだから平気なもんだよ。
そんな訳で町から町をブラブラして手に入れた犬を大学や医学校へ持って行くと、博士の卵が待ちかねていて、一匹八十銭から二円五十銭ぐらいで買ってくれる。平均すると衛生学部が一番高価くて、生理や解剖が一番安いようだ。これは衛生学部だと狂犬病の実験に供して、高価《たか》い予防注射液を作る資本にするから、割に合うので、生理や解剖だと切積《きりつも》った研究費で博士になろうと思っている筍《たけのこ》連中が、単なる使い棄てに使うつもりだからだろう。勿論、学生上りだからといったって馬鹿には出来ない。相当、足元を見る奴が居るので油断が成らないが、非道《ひど》い奴になると吾輩を乞食扱いにして値切る奴が居る。
「オイ、鬚野《ひげの》先生。三十銭に負けとき給え、ドウセ無料《ただ》で拾って来たんだろう」
そんな奴には、よく犬コロをタタキ附けてやったもんだ。横面《よこっつら》を引っ掻かれたり、眼鏡を飛ばされたりして泣面《なきっつら》になって謝罪《あやま》る奴も居た。
「篦棒《べらぼう》めえ。無代《ただ》で呉れてやるから無代で博士になれ。その代り開業してから診察料を取ったら承知しねえぞ」
天狗猿教授
……どうしてソンナ奇抜な商売を思い付いたかって云うのか。ナアニ、吾輩が発明したんじゃない。向うから発明してくれたんだ。
前にも話した通り吾輩は、パトロンの有閑未亡人|亜黎子《ありこ》さんの爆発昇天後、世の中が紐《ひも》の切れた越中褌《えっちゅうふんどし》みたいにズッコケてしまって何をするのもイヤになった。毎日毎日どこを当てどもなく町中をブラブラして、料理屋のハキダメを覗きまわったり、河岸縁《かしっぷち》の蟹《かに》と喧嘩したり、子供の喧嘩を仲裁したり、溝《どぶ》に落ちたトラックを抱え上げてやったりしているうちに或日の事、大学校の構内へ迷い込んだ。吾輩これでも亜黎子未亡人のお蔭で、世界有数の大学者になっているんだから、学問の臭いを嗅《か》ぐとなつかしい。どこかで学者らしい奴にめぐり会わないかなあ、会ったら一つ凹《へこ》ましてやりたいがなあ……なんかと考えながら来るともなく法医学部の裏手に来ると、紫陽花《あじさい》の鉢を置いた窓から吾輩を呼び止めた奴がある。
「オイ君君……君……ちょっと……」
見ると相当の老人だ。顔が天狗猿《てんぐざる》みたいに真赤で、頭の毛がテリヤみたいに銀色に光っている奴をマン中から房々《ふさふさ》と二つに別けている。太眉《ふとまゆ》が真黒で髯《ひげ》は無い。そいつが鼻眼鏡をかけて白い服を着て、紫陽花の横から半身を乗出したところは何となく妖怪じみている。処女見たいな眼を細くして金歯をキラキラ光らしているから一層、気味が悪い。一見して容易ならぬ学者だという事がわかる。
「……君……一つ頼みたい事があるんだが」
学者だけに常識が無いらしい。初対面の人間に物を頼むのに、窓越しに頼むという法は無い。吾輩も腕を組んだまま、振返って返事してやった。
「何の御用ですか」
天狗猿がニッコリと笑った。
「君は実験用の犬屋だろう」
吾輩は面喰らった。そんな商売が在る事を、その時がその時まで知らなかったもんだから思わず自分の姿を見まわした。成る程、煙突の掃除棒みたいな頭に底の無いカンカン帽を冠《かぶ》っている。右の袖の無い女の単物《ひとえもの》の上から、左の袖の無い男浴衣を重ねて、縄の帯を締めている。河岸の石垣の上から穿《は》いて来た赤い鼻緒の日和下駄《ひよりげた》を穿いているが、これはどうやら身投《みなげ》女の遺留品らしい。成る程、実験用の犬屋というものはコンナ姿のもんかなと思ったから黙ってうなずいた。天狗猿もうなずいてポケットを探りながら半分ばかり残っている朝日の袋とマッチを差出した。
「吸わんかね……君……」
「呉れるんですか」
「うん。君は好きだろう。歯が黒い」
吾輩は気味が悪くなった。天狗猿の奴、吾輩を呑込んでいるらしい。
「まあ御用を承ってからにしましょう」
「アハハ。恐ろしく固苦しいんだね君は……ほかでもないがね。実は今まで僕の処に出入りしていた実験用の犬屋君が死んじゃったんだ。腸チブスか何かでね。おかげで実験が出来なくなって困っているのは僕一人じゃないらしいんだ。本職の犬殺し君に頼んでもいいんだが、生かして持って来るのが面倒臭いもんだから高価《たか》い事を吹っかけられて閉口しているんだ。君一つ引受けてくれないか。往来から拾って来るんだから訳はないよ。一匹一円平均には当るだろう。猫でもいいんだが……」
「つまり犬殺しの反対の犬生かし業ですね」
「まあ……そういったようなもんだが立派な仕事だよ。往来の廃物を利用して新興日本の医学研究を助けるんだからね。君が遣ってくれないと困るのはこの大学ばかりじゃないんだ。向うの山の中に在る明治医学校でも実験用の動物を分けてくれ分けてくれってウルサク頼んで来ているんだからね。大した国益事業だよ」
吾輩は天狗猿の口の巧いのに感心した。丸い卵も切りようじゃ四角、往来の犬拾いが新興日本の花形なんだから物も云いようだ。
「やってみてもいいですが、資本が要りますなあ」
「フウン……資本なんか要らん筈だがなあ」
「要りますとも……犬に信用されるような身姿《みなり》を作らなくちゃ……」
「アハハ、成る程……どんな身姿かね」
「二重マントが一つあればいいです。それに山高帽と、靴と……」
「恰度《ちょうど》いい。ここに僕の古いのがある。コイツを遣ろう」
と云ううちに最早《もう》、古山高と古マントと古靴を次から次に窓から出してくれたので、流石《さすが》の吾輩も少々|煙《けむ》に巻かれた。
「洋傘《こうもり》は要らんかね」
「モウ結構です。先生のお名前は何と仰言《おっしゃ》るのですか」
「僕かね。僕は鬼目《おにめ》という者だ。この法医学部を受持っている貧乏学者だがね」
吾輩は思わず貰い立ての山高帽を脱いだ。鬼目博士の論文なら嘗《かつ》て亜黎子未亡人の処で読んだ事がある。その頃まで、三十年前頃までは、微々として振わなかった日本の法医学界に、指紋と足痕《あしあと》の重要な研究を輸入した科学探偵の大家だ。
「学界のためだ。シッカリ奮闘してくれ給え。君を見込んで頼むんだ」
「しかし……しかし……」
「しかし何だい。まだ欲しいものがあるかい」
「イヤ、先生はドウして僕が、この仕事に適している事をお認めになったんですか」
「アハハ、その事かい。それあ別に理由《わけ》は無いよ。君の過去を知ってるからね」
「エッ、僕の過去を……」
「僕は度々君の軽業を見た事があるんだよ。君がドコまで不死身なのか見届けてやろうと思ってね。毎日毎日オペラグラスを持って見に行ったもんだよ。だから君があの木乃伊《ミイラ》親爺を殺したホントの経緯《いきさつ》だって知っているんだよ。あの未亡人を爆発させた火薬と、バルチック艦隊を撃沈した火薬が、同しものだってことも察しているんだよ。ハハハ」
吾輩は聞いているうちに全身が汗ビッショリになった。コンナ頭のいい恐ろしい学者が人間世界に居ようとは夢にも思わなかったので今一度シャッポを脱いで窓の前を退散した。
人生意気に感ず。武士は己《おのれ》を知る者のために死すだ。考えてみると吾輩というこの人間の廃物を拾い上げてくれた奴は、次から次に、吾輩のために非業《ひごう》の死を遂げて行くようだ。最初が木乃伊《ミイラ》親爺、その次が有閑夫人亜黎子、いずれも吾輩と似たり寄ったりの廃物揃いであったが、今度はどうして廃物どころじゃない、日本第一の法医学者、鬼目博士と来ているんだから間誤間誤《まごまご》しているとこっちが位《くらい》負けして終《しま》うかも知れない。むろんこっちでも恩を仇《あだ》で返す了簡《りょうけん》なんか毛頭無いんだが……とにもかくにも吾輩の博士製造業……往来の犬生かし事業は、こうして天狗猿の鬼目博士から授《さず》かったものなんだ。
ウンコ色貴婦人
そうだよ。目下のところ、吾輩は犬が専門だよ。以前《もと》は猫もやっていたが、アイツは中々手数がかかるんだ。
猫という奴は芸者と同様ナカナカ一筋縄では行かない。ニャアニャアいって御機嫌を取るようだが、元来は猛獣なんだからそのつもりでいないと非道《ひど》い目に会う。その猛獣一流のハッキリした個人主義を伝統していて、自分以外のもの一切を敵と心得ている奴が猫だ。物蔭から「フッ」というと間一髪の同時に身構えるという、講道館五段以上の達人だから容易な事では手に合わない。もっとも蝮《まむし》を手掴みにする商売人も居るんだから練習すると相当に掴めるんだが、持って帰るのが面倒だ、中々マントの内ポケットにジッとしてなんかいないんだから袋の口を釦《ぼたん》で止めとかなくちゃならん。
だからコイツは釣るの一手だ。何でも構わないからコマギレを引っかけた釣針に糸を附けた奴を、人通りの無い横露路か何かで、適当な猫の隠れ場所の在る近くに結び付けておくと、奴《やっこ》さん、散歩の序《ついで》に通りかかって引っかかる。チクリと来ると吐出《はきだ》すが又、喰う。そのうちに鈎《かぎ》が舌に引っかかるんだが、引っかかったら最後、決して啼かないから妙だ。
「ミイやミイや」
なんて抱主《かかえぬし》が探しに来てもジイッと塵箱《ごみばこ》の蔭なんかに隠れてしまうからナカナカ見付からない。頃合いを見計らって、そいつを拾ってまわると一日に五匹や六匹は間違いない。釣針に附いた糸をマントのボタンに捲付《まきつ》けておけば神妙に黙ったまま藻掻《もが》いている。
「まあまあ可愛相《かわいそう》に……コンナ非道《ひど》い事をして……ジッとしておいで、外《はず》して上げるから。イクラお肴《さかな》を盗んだってアンマリじゃないか。死んだら化けて出ておやり。憎らしい……」
なんていうのには百の中《うち》一つも行当らない。
もう一つ猫をやめた理由は、ドウも犬と猫との間に需要、供給の不公平があるらしい。犬の余り物の方が実際上、猫よりも遥かに多いんだ。
俗に三味線太鼓といって三味線は猫の皮、太鼓は犬の皮ときまっているらしいが、猫の皮は日本国中、自惚《うぬぼれ》と瘡毒気《かさけ》の行渡る極み、津々浦々までペコンペコンとやっているが、太鼓の方はそうは行かない。イクラ非常時だからといったってあっちへドンドンこっちへドンドンやっていたら日本中が「お月様イクツ」になってしまう。だからワンワンの廃《すた》り物の方がニャアニャアのルンペンよりも遥かに多い訳だ。
尤《もっと》もいくらワンワンだって、無鑑札の廃物ばかりを狙っている訳じゃない。時には必要に応じて有鑑札のパリパリを狙う事もある。コイツは極く内々の話だがトテモ珍妙な事件が在るんだ。ツイこの頃の事だ。
今云った天狗猿博士の乾分《こぶん》で、法医学の副手をやっている男が、是非とも中位のセパードが一匹欲しい。軍用犬の毒物に対する嗅覚と、その毒物に対する解剖学上の反応を調べてみたいのだが、ナカナカ手に入らないので困っている。金は十円ぐらいまで奮発するから一つやってくれ。鬚野先生以外にお頼みする人が居ないのだから……と恐ろしく煽動《おだ》てやがったから特別を以て引受けてやった。
そこでその副手から鋭利なゾリンゲン製の鋏《はさみ》を一挺借りて、その日一日中と、あくる日の夕方までかかって市中の屋敷町という屋敷町をホツキ歩いたが、誰でも知っている通りセパード級の犬になるとどこの家《うち》でもナカナカ外へ出さない。タマタマ出していてもゾッとする位大きな奴だったり、頑丈な男が鎖で引っぱっていたりして注文通りの奴に一度も行当らない……これでは日当にならない。ほかの雑犬《ざっぱ》を漁《あさ》って数でコナシた方が割がいい。これ位で諦らめて鋏を返してしまおうか知らんと胸算用をしいしい来るともなく、市内でも一等繁華な四角《よつかど》の交叉点《こうさてん》へ来てて、ボンヤリ立っているうちに、居た居た。生後三箇月ぐらいの手頃
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