掃部《かもん》様は桜田門なんか通らなかったら首無し大名なんかにならないで済んだであろうし、キリストやクレオパトラだって今の世に生まれていたら柊林《ハリウッド》あたりのステージで抱合って、監督をハラハラさしているかも知れない。俺だって十四の年に女郎買いに行ったのが振り出しで、いつの間にかコンナ犬攫《いぬさらい》のルンペンに……まあそんな事はドウでもいい。とにかく偶然ぐらい恐ろしいものは世の中にない。
 ところで問題は眼の前の仕事だ。……出来るだけ美味《うま》い酒が飲めるような結論の方向へひっぱって行きたいものだが……差当って先ず、何といっても問題のフォックス・テリヤUTA《ウータ》を探し出すのが目下の急務だろう。
 ところで面白い事に吾輩はそのテリアUTA《ウータ》を売付けた相手の顔をチャンと記憶しているんだ。誰でもない、大学の耳鼻科の教室で研究している羽振菊蔵という医学士だ。今の令嬢の話に出て来た通りの、いやにノッペリした気障《きざ》な野郎だが、そいつの手にUTA《ウータ》が渡っているんだから冗《くど》いようだが偶然は恐ろしい。むろん羽振医学士は、そんな事とは夢にも知らない筈だし……イヤ、知っているかも知れないが、知っておれば尚更のこと、もうトックの昔に実験にかけて殺してしまっているかも知れない。
 吾輩は思わず急ぎ足になった。タクシー代は勿論、電車賃もない、昨夜《ゆんべ》飲んでしまったんだから……。

     喜劇? 悲劇?

 実にいい天気だった。
 いい天気だと往来を歩いている犬が多いもんだ。そいつを五六匹も攫《さら》って大学へ持って行けば八両や十両の仕事には直ぐになる。行きつけの居酒屋「樽万《たるまん》」で銘酒「邯鄲《かんたん》」の生《き》一本がキューと行ける筈なのに、要らざる処を通りかかって要らざる用事を引受けた御蔭《おかげ》で、千里|一飛《ひとと》び、虎小走り一直線に大学へ行かねばならぬ。
 断髪令嬢が、婚約中の愛人から貰った小犬を、そんな事とは知らない吾輩が攫って大学校の博士の卵に売飛ばしたバッカリに、その断髪令嬢に対して重大な責任が出来てしまった。その小犬を取返して、断髪令嬢の破れかけたハートを修繕しなければならぬ責任を、否応《いやおう》なしに負わされてしまった。しかもその大切な小犬を実験用に買った奴が、その令嬢の愛人の恋仇《こいがたき》と来ているんだから話がヤヤコシイ。首尾よく犬が取返せるか、返せないか。この恋が成立するかしないかという重大な責任が、千番に一番の兼ね合いで、吾輩の双肩にかかって来た訳だ。
 棒も歩けば犬に当るとはこの事だ。
 考えてみると馬鹿馬鹿しい話だ。そんな責任をイケ洒唖洒唖《しゃあしゃあ》と吾輩に負わした彼《か》の断髪令嬢は二三時間前まで、全く見ず識らずの赤の他人だったのだ。ドコの馬の骨だか牛の骨だか、訳のわからない同士だったのだ。人間、返す返すも行きがかりぐらい恐ろしいものは無い。
 探偵小説では偶然の出来事を書くと面白くないというがこれは恋愛物語なんだから構わないだろう。しかも喜劇になるか、悲劇になるかは一に吾輩の手腕一つにかかっているんだから、何の事はない、実物応用の実際小説だ。世界歴史と同様今にドンナ事が始まるかわからない。舞台監督兼主役の吾輩からして一寸先は真暗闇《まっくらやみ》だ。
 先ず断髪令嬢山木テル子の愛人、唖川歌夫の恋敵、羽振キク蔵君にブツカル訳だが、サテ、どんな機嫌様《きげんさま》にぶら下るか……。

     半死の小犬

 サア来た。大学医学部の実験動物飼育室に来た。イヤ、どうも暑いの何のって……二重マントの袖で汗を拭い拭いしてみたが明るい外界からイキナリ、暗い飼育室に来たもんだから梟《ふくろ》みたいに何も見えない。何ともいえない劇毒薬の蒸発するような動物臭が腸《はらわた》のドン底まで沁《し》み込んで行く。世界の終りかと思えるようなエタイのわからない悲鳴が、あとからあとから耳の穴に渦巻き込む。勿体なくも市内第一流の桃色ローマンスの糸の切端《きれはし》がコンナ処に落込んでいようなんて誰が想像し得よう。先《ま》ず一息入れて落付いてみる事だ。
 居る居る。猫だの犬だのモルモットだのがウジャウジャ居る。雛《ひよ》ッ子を育てるような金網の籠に犬は犬、猫は猫と二三匹か四五匹|宛《ずつ》入れた奴がズーッと奥の方まで並んでいる。鶏《にわとり》も居るし小羊も居る。奥の方から羽二重《はぶたえ》を引裂くような声が聞こえる処を見ると、猿を飼っている贅沢な奴が居るらしい。まさか青二才の博士の卵が、猿の睾丸《きんたま》を使って若返り法を研究しているのじゃあるまい。
 そんな動物連中の排泄物や、体臭や、猛烈に腐敗した食餌の落零《おちこぼ》れの発酵|瓦斯《がす》で、気が遠くなるほど臭い上に、ギャアギャアワンワンニャーニャーガンガン八釜《やかま》しい事|夥《おびただ》しい。その中でも犬の鳴声が圧倒的に大多数なのは吾輩の努力が与《あずか》って力がある訳で、心強いことこの上なしだ。その金網籠の一つ一つに、それぞれ所有主《もちぬし》の木札が附いている奴へ、番人が、それぞれに餌《え》を遣っている。この番人が犬や猫へ遣る御馳走をチョイチョイ抓《つま》んでいる事実を知っているのは吾輩だけかも知れないが、しかし又、こいつが居ないと、博士の卵連中が、研究室とかけ持ちで動物の世話をしなくちゃならないのだから文句は云えない。吾輩みたいに無代価で攫《さら》って来たシロモノを売りつける癖の附いた人間から見れば、この金網の番人なぞは、よっぽど尊敬していい訳だ。だから吾輩はいつでも出会うたんびに山高帽をチョッと傾けて敬意を表する事にしている。上には上があると思ってね。
 ところでその金網籠に附けた木札を覗きまわってみると在った在った。ハブリと片仮名で書いた木札を附けた犬の籠が片隅に十ばかり固まっている。どうも恐ろしく犬ばかり集めたもんだと思ったが、よく見るとドレモコレモ見覚えのある犬ばかりだ。果然、羽振医学士閣下は吾輩の上華客《じょうとくい》だった事を思い出した。ブルテリヤ、狆《ちん》、セッター、エアデル、柴犬なぞ。飼犬の豪華版みたいだが心配する事はない。どれもこれも純粋種なんか一匹も居ないのだからヤヤコシイ。いい加減というよりも寧《むし》ろミジメな位の混合種ばかりが、尻尾振り合うも他生の縁という訳でギャンギャンキャンキャン吠え合っていたものだが、そいつが吾輩の顔を見ると一斉に吠えるのを止めて、尻尾を振り振り金網に立ちかかって来た。
 吾輩は胸が一パイになった。タッタ二時間、三時間のおなじみでもチャント記憶しているから感心なものだ。勿論、吾輩の顔や風態を見覚えている訳ではなかろう。亜歴山《アレキサンデル》大王は身体に薔薇《ばら》の臭いがしたという位で、吾輩みたいな偉人の体臭は、犬にとっても忘れられないものがあると見える。
 その中にタッタ一匹、歓迎の意を表しない奴が居る。隅っ子の特別の金網に入れられて息も絶え絶えに屁古垂《へこた》れている汚ならしいフォックス・テリヤだ。見忘れもしないこの間、山木|混凝土《コンクリート》氏の玄関前から掻《か》っ攫《さら》った一件だ。

     色男医学士

 吾輩はツカツカとその金網に近づいてブルブル震えている犬《やつ》を抱き上げた。犬さえ見付かれや他に用は無い。持って帰って山木テル子嬢に引渡せばいい……と思って抱き直すトタン犬の肋骨がゾロッと手に触ったのでゾッとしてしまった。見るとアンマリ弱り方が甚しい。骨と皮ばかりになっている上に、鼻の頭がカラカラに乾いてしまって、瞳孔の開いた眼脂《めやに》だらけの眼で悲しそうに吾輩を見上げているが尻尾を振る元気も無いらしい。一体これはどうした事かと、明るい窓の下へ持って行ってよく見ると、弱っている筈だ。咽喉《のど》を切り開いて金属製の鵯笛《ひよぶえ》みたいなものを嵌《は》め込まれている。その小さいブリキ板の中央の穴からスウスウと呼吸をしているのが如何にも苦しそうだ。よくジフテリヤに罹《かか》った子供が、咽喉が腫《は》れ塞《ふさ》がって咽喉切開の手術をされたあとに嵌めてもらっているアレだ。こうした錻力《ぶりき》製の呼吸孔の事を医学用語ではカニウレと云うのだが、和訳したら金属製咽喉笛とでもなるのかな。
 さてはこのフォックス・テリヤ氏、UTA《ウータ》君はジフテリヤにでも罹《かか》ったのかな。そうとすればこの容態ではトテモ助からない。おまけに熱も相当に在るようだが……弱ったな。黙って持って行くつもりだったが、コンナ容態では持って帰るうちにグウタになっちまうかも知れない。ハテ、何とか方法は無いものか……と、ガタガタ震えている犬を抱えてシキリに考えているところへ、背後から音もなく猫のように忍び寄って来て、吾輩の肩にソット手を置いた奴が居る。振返ってみると、タッタ今考えていた当の本人の羽振医学士だ。悪いところへ来やがったと思ったが、しかし何度会ってもいい男だ。毛唐《けとう》で破廉恥脳《バレンチノ》という女たらしの映画俳優が居たがソイツによく肖《に》ている。頭をテカテカに分けて白い診察服を着込んでいる恰好はモウ立派な博士様だ。
「……今日は……鬚野先生。いい犬が見付かりましたかね」
「イヤ、今日は駄目だ。それよりもこの犬はドウしたんかい。ジフテリヤでもやったんかい」
「アッ、この犬ですか」
「知っとるのかい、この犬を……」
「存じております。一ヶ月ばかり前に頂戴しましたフォックス・テリヤで……」
「そうじゃない。この犬がどこの家の犬だか知っとるのかと云うんだよ……君が……」
「……………」
 羽振医学士の顔がサット青くなった。どうやら知っているらしい眼の玉の動かし方だ。
「知らん筈はないじゃろう。あの家《うち》の犬ということを」
「存じません。ドコの犬だか……貴方がどこかからかお持ちになったのですから……」
「この犬は山木テル子さんの犬だよ」
「ヘエ、山木テル子さん……存じませんな、ソンナ方……」
「ナニ知らん……」
「ハイ、まったく……その……」
「ウン、キット知らんか……」
「……ぞ……ぞんじません。そんな方……まったく……」
 博士の卵が汽車の信号みたいに青くなったり赤くなったりした。しかし汽車の信号でも何でもモウ相場がきまっている。自分が結婚を申込んだ女の名前を忘れるようなウンテレガンが在るもんじゃない。コイツは多分、この犬の名前がウータといって、自分の恋敵《こいがたき》、唖川歌夫からテル子嬢に贈ったものである事もチャンと知っていやがるに違いない。そいつを承知でコンナ非道《ひど》い眼に合わせて、いい気持になっている事が吾輩にわかったら事が面倒だと思って、障《さわ》らぬキチガイ祟《たた》りなし式に、最初から警戒しいしい口を利いているのだろう。コンナ誠意のない奴にあの親孝行無双の断髪令嬢を遣る訳には断然イカン。
「フン、知らんなら知らんでええ。その代りにこの犬の病気を出来るだけ早く治癒《なお》せ」
「アッ。そ……そいつはドウモ……」
「出来んと云うのか」
 吾輩の見幕を見た羽振医学士がブルブル震え出した。すこしずつ後退《あとしざ》りをし始めた。
「ハ……ハイ。それはソノ……結核の第三期にかかっておりますので……ハイ……」
「変な事を云うな。最初から第三期か」
「イエ。その最初が初期で……その次が第二期で……」
「当り前の事を云うな。篦棒《べらぼう》めえ。最初から結核だったのか、この犬は」
「ソ……それがソノ……実験なんで……」
「何の実験だ……」
「それがソノ……今までジフテリヤにかかって手遅れになりますと、咽喉切開をして、その切開した部分へコンナ風にカニウレを嵌めます。ところがそのカニウレの穴から呼吸をすると色々な呼吸器病にかかる事がありますので……」
 アンマリ真面目腐って講釈をするもんだから吾輩はちょっと嘲笑《あざわら》ってみたくなった。

     惜しい鼻柱

「フウム。このカニウレを嵌《は》めた奴は人間でも犬猫でもこの通りチョ
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