もの、一度もそのお河童《かっぱ》さんの処に訪ねて来ないなんて、よっぽどおかしいわ」
「ねえ先生。これを要するにですねえ、先生」
女将はボオッと来ているらしい。しきりに舌なめずりをして眼を据えた。
「ウフウフ。これを要しなくたっていいよ」
「いいえ。是非ともこれを要する必要が御座いますわ。どうも先生の仰言《おっしゃ》る実物創作の筋書っていうのは、カンジンの材料《テーマ》が二割引だと思いますわ」
「ヒヤッ。材料《テーマ》とおいでなすったね。どこでソンナ文句を仕入れたんだい」
「あたしの二代前の亭主が小説家だったんですもの。自然主義の大将とか何とか云われていたんですけど、創作なんか一度もしないで、実行の方にばかり身を入れちゃって、とうとう行方知れずになったんですからね。材料《テーマ》って言葉は、その悲しい置土産なんですの」
「ふむ。自然主義なら吾輩にもわかるが、とにかくこの創作を完成しなくちゃ話にならん」
「駄目よ先生。そんな創作無いわよ。モウすこし人物を掘下げてみなくちゃ。中心になっているお河童さんの恋愛だって、本物だかどうだか知れたもんじゃないわ」
「ウーン。そういえば何だか吾輩も不安になって来た。一つ探偵し直しに行ってみるかな」
「どこから探偵し直しをなさるの」
「さあ。そいつが、まだ見当が附いていないんだ。もう一度あのお河童令嬢に会ってもいい。犬のお悔みを申上げてお顔色拝見と出かけるかな」
「駄目よお、先生。又|欺《だま》されに行くだけよ。第一印象でまいっていらっしゃるんですからね、先生は……」
「ねえ先生。思い切って小伯爵のお父さんか、お母さんに会って御覧になってはどうでしょう。そうして何も彼《か》も打明けて、意見を聞いて御覧になっては如何《いかが》でしょう」
「よし。それじゃ方針がアラカタきまったから出かける事にしよう」
「まあお待ちなさいよ。そんな恰好で入《い》らっしたって会えやしませんよ。伯爵なんてシロモノは……今電話をかけて来ますから……自動車を奢《おご》って上げますからね」
「エッ。自動車を奢る?」
「ええ。羽振の居所を教えて下すった、お礼ですよ。……まあ聞いていらっしゃい」
女将が何かしらニコニコ笑って立上った。コック部屋の横の帳場に坐り込むと、電話帳を調べてから念入りにダイヤルをまわした。
特別に品のいいオリイブ色の声を出した。
「モシモシ、モシモシイ。唖川伯爵様のお宅でいらっしゃいますか。ハイハイ、コチラはねえ、アノこちらはねえ、大学前の自働電話で御座いますがねえ……ハイハイ。私はねえ、唖川様の若様を存じ上げております女で御座いますがねえ……」
貞操オン・パレード
「あのモシモシ……私は或る女で御座いますがねえ。ホホホ。それは申上げかねますがねえ。アノ若様は……そちらの小伯爵様は只今、御在宅でいらっしゃいますか。……ハイハイ。あの三週間ばかり前から御不在……あら、左様《さよう》でいらっしゃいますか……どうも相《あい》すみません。こちらはアノ。その若様の代理で御座いますがねえ。ハイ間違い御座いません。それでお電話を差上るので御座いますが……その若様の御身《おみ》の上について大切な御報告を申上げたい事が御座いますので……ハイハイ。どうぞ恐れ入りますが伯爵様へ直接にお取次をお願い致したいので御座いますが……ハイハイ。かしこまりました……」
女将は平手で電話口を蔽《おお》いながら、吾輩をかえり見てニタリと笑った。
「何だ小伯爵は失踪してるのかい」
「ええ。そうらしいんですよ。唖川《おしがわ》家は大変な騒ぎらしいんですよ。今出て来た三太夫《さんだゆう》の慌て方といったらなかったわ」
「ウム。よく新聞記者に嗅付《かぎつ》けられなかったもんだな」
「まったくですわねえ。でもコッチの思う壺ですわ」
「ウム。面白い面白い。その塩梅《あんばい》では秘密探偵か何かがウンと活躍しているだろう」
「ウチ鬚野先生をスパイじゃないかと思ったわ」
「シッシッ」
女将が又電話口で話を始めたので皆シインとなった。
「あの……伯爵様で御座いますか。お呼立ていたしまして、ハイハイ。かしこまりました。それでは直ぐにこれからお伺い致します。イエイエ。決して御心配なことは御座いません。何もかもお眼にかかりますれば、すっかりおわかりになりますことで……あの誠に恐れ入りますが、わたくしお宅を存じませんから、そちらのお自動車を至急に大学の正門前にお廻し下さいませんでしょうか。あそこでお待ちして手をあげますから、ハイハイ。お自動車は流線スターの流線型セダン。かしこまりました。では御免遊ばしまして……」
「巧いもんだなあ。流石《さすが》は凄腕だ。上海仕込みだけある。流線スターといったら、東京に一つか二つ在る無しの高級車だぜ」
「アラ、乗ってみたいわねえ」
「ウフ。乗せてやるから一緒に来い」
「あたしも乗りたいわ」
「ウム。みんな来い。モウ着物は乾いたろう」
「アラ、厭な先生、乾《ほ》してんのは普段着よ。晴着はチャント仕舞ってあるわよ」
「ヨオシ。出来るだけ盛装して来い。貞操オン・パレードだ」
女たちが鬨《とき》の声を揚げて喜んだ。
「鶴子さん。アンタはね、洋装がいいわ。出来るだけ毒々しくお化粧しておいでよ。伯爵様にお目見えするんですから……」
「アラ、女将さん。あたし怖いわ」
「怖いことあるもんですか。その方がいいのよ。妾《わたし》に考えがあるんですから……」
鶴子というのは一番最初に吾輩に口を利いた一番若い美しい娘であった。
「まあ先生。ソンナに酔払って大丈夫?」
「大丈夫だとも。酔っている真似は難かしいが、酔わない真似なら訳はないんだ。キチンとしていれあいいんだからね」
禿頭変色
吾々一行の姿を他人が見たら何と云うだろう。
葬式自動車みたいな巨大な箱車の中《うち》に、令嬢だか、女給だか、籠抜娼妓《かごぬけしょうぎ》だか、マダム・バタフライだか、何が何やらエタイのわからない和洋服混交の貞操オン・パレードがギッチリ鮓詰《すしづ》めになっているその中央に、モダン鍾馗《しょうき》大臣の失業したみたいな吾輩が納まり返っているんだから、何の事はない一九三五年式大津絵だろう。
その一団を乗せた流線型セダンが音もなく辷《すべ》り出すと、吾輩は急に睡くなってグーグーと居睡りを始めた。自分の鼾《いびき》の音が時々ゴウゴウと聞こえる。女たちのクスクス笑う声を夢うつつに聞いている中《うち》に自動車がピッタリと止まったので、吾輩は慌てて女たちの膝を跨《また》いで一番先に飛降りて扉をパタンと締めた。
「お前たちはこの中で暫く待ってろ。吾輩が談判の模様によって呼込んでやるから……」
と云い棄てるなりフラフラしながら玄関の石段を上った。待っていたらしい唖川家の家令だか三太夫だか人相の悪い禿頭《はげあたま》が、吾輩の姿を見ると眼を剥《む》き出して睨み付けた。睨み付けるのも無理はない。オリイブ色の声なんかどこを押したって出そうな面構えじゃない。たしかに人間が違っているに相違ないのだから……。
「貴方は……何ですか……」
「老伯爵閣下に会いに来た人間だ」
「……ナニ……」
と云うなり禿頭が腕をまくった。柔道の心得か何かあるらしい。吾輩の胸をドシンと突いたが、吾輩微動だにしなかった。向うに柔道の心得があればコッチにルンペンの心得がある。相手が用人棒だろうが何だろうが、身構えたら最後、金城鉄壁、動く事でない。
「……か……閣下は貴様のような人間に御用はない」
「ハハハ、そっちに用がなくともこっちにあるんだ」
「ナ……何の用だ……」
「貴様のような人間に、わかる用事じゃない。人柄を見て物を云え。何のために頭が禿げているんだ」
禿頭の色が紫色に変った。慌てて背後《うしろ》の扉《ドア》にガッチリと鍵をかけた。
「会わせる事はならん」
「八釜《やかま》しい」
と云うなりその紫色の禿頭を平手で撫でてやったら、非常に有難かったと見えて、羽織袴のまんま玄関の敷石の上に引っくり返ってしまった。その間に吾輩は巨大な真鍮張《しんちゅうば》りの扉《ドア》に両手をかけてワリワリワリドカンと押し開《あ》けた。そこから草原《くさはら》みたいな柔らかな絨壇の上に上って、背後《うしろ》をピッタリと締切ると、外でワンワンワンとブルドッグの吠える声と、自動車の中で女たちの悲鳴を揚げて脅える声が入り交って聞えて来た。ブルドッグという奴はいつでも気の利かない動物らしい。
癇癪くらべ
そんな事はドウデモ宜《い》い。吾輩はグングンと廊下に侵入した。暗い廊下の左右に並んでいる部屋を一つ一つ開いて検分して行く中《うち》に、一番奥の一番立派な部屋の中央に、巨大なロココ式ガラス張りのシャンデリヤが点《とも》っているのを発見した。
そのシャンデリヤの下に斑白《はんぱく》、長鬚《ちょうしゅ》のガッチリした面《つら》つきの老爺《おやじ》が、着流しのまま安楽椅子に坐って火を点《つ》けながら葉巻を吹かしている。写真で見たことのある唖川伯爵だ。七十幾歳というのに五十か六十ぐらいにしか見えない。嘗《かつ》ての日露戦争時代に、陸海軍大臣がハラハラするくらい激越な強硬外交を遣《や》っ付《つ》けた男で、この男の一喝に遭《あ》うといい加減な内閣は一《ひ》と縮みになったものだから痛快だ。成る程、掛矢《かけや》でブンなぐっても潰れそうもない面構えだ。取敢えず敬意を表するために、吾輩は山高帽を脱ぎながらツカツカと進み寄って、恭《うやうや》しく頭を下げた。
「……キ……貴様は……何か……」
まるで頭の上に雷が落ちたような声だ。頭を上げて見ると伯爵は安楽椅子から立上って、吾輩を真白な眼で睨み付けている。露国の蔵相、兼、外相ウイッテ伯を縮み上らせた眼だ。しかし吾輩は、わざと哄笑してみせた。
「アハハハ、私は鬚野房吉というルンペンです」
「……ナ……何だルンペンとは……」
「ルンペンというのは独逸《ドイツ》語です。独逸語で襤褸《ぼろ》の事をルンペンというところから、身なりとか根性とかがボロボロに落ちぶれた奴の事をルンペンというようになったのです。御存じありませんか。日本にも勲章を下げて、立派な家《うち》に住まったルンペンが、イクラでも居りますよ」
伯爵は立腹の余り口が利けなくなったらしい。葉巻をガチガチと噛んで、鬚をビクビク震わせている。
吾輩は、すこし気の毒になったから、心持ち言葉を柔《やわら》げた。
「伯爵閣下、実は今日お伺い致しました理由は、ほかでは御座いません。御令息の唖川歌夫君の事についてです」
「黙れっ……黙れっ……吾輩の家庭の内事は吾輩が決定する。貴様等如きの世話は受けんッ……」
吾輩はここに到ってカンシャク玉が破裂した。この老爺《おやじ》は外交問題と家庭の内事をゴッチャにしている。ドンナ豪《えら》い人間でも、自分の妻に関する事を他人から話出されたら一応は頭を下げて傾聴すべきものだ。
「ええこの馬鹿野郎。貴様等如きとは何だ。吾輩はこれでも一個独立の生計を営む日本国民だぞ。聊《いささ》かの功績を云い立てにして栄位、栄爵を頂戴して、無駄飯を喰うのを光栄としているような国家的厄介者とは段式が違うんだぞ。日露戦争の時には俺の発明した火薬が露助《ろすけ》にモノをいったんだぞ。日本の医学は吾輩の努力の御蔭《おかげ》で、今日の隆盛を来《きた》しているんだ。しかも吾輩は国家に何物をも要求しない。毎日毎日この通りのボロ一貫で、途《みち》に落ちたものを拾って喰ってるんだ。苟《いやしく》も君のためや、親子兄弟、妻子朋友のためになる事ならば無代償で働くのが日本国民だ。伯爵が何だ。正三位が何だ。そんな乾《ひ》からびた木乃伊《みいら》みたいな了簡だから、伜《せがれ》が云う事を聴かないで家《うち》を飛出すのだぞ」
女将の凄腕
多分顔負けしたんだろう、伯爵閣下は、よろよろとよろめいて背後《うしろ》の椅子にドシンと尻餅を突いた。病み犬が逃げ吠えするように、モノスゴイ眼で吾輩を睨んだ。
「黙れ
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング