外科医の智識から見ると、奇蹟としか思えない妖怪的な負傷兵の大群が、洪水のように戦線から逆流して来て、私の周囲に散らばり拡がって、めいめいそれぞれの苦痛を、隣同志、無関係にわめき立てる。又は歌を唄い、祈りを捧げ、故郷の親兄弟妻子と夢うつつに語り合う。ゴロゴロと咽喉《のど》を鳴らして息を引取る……伯林《ベルリン》の酒場や、巴里《パリ》の珈琲《コーヒー》店や、倫敦《ロンドン》の劇場と同じ地続きの平面上に在るとは思えない恐怖の世界……死人の世界よりもモット物すごい現実の悪夢世界……そんなものが在り得るならばあの時の光景がそうであったろう。
 夜が深くなって来るに連れて……負傷兵が増加して来るに連れて……一層、仕事が困難になって来た。傷口を診察するタヨリになるのは蛍色の月の光りと、木の枝の三叉《みつまた》に結び付けて地に立てた懐中電燈の光りだけで、それすら電池が弱りかけているらしく光線がダンダンと赤茶気て来る。材料なんぞも殆んど欠乏してしまったので、私は独断で手近い天幕を切り裂いて繃帯《ほうたい》にして、自分の身のまわりだけの負傷者を片付けて行った。戦争が烈しいために、万事の配給が困難に陥っているらしかった。

 私がソンナ風に仕事に忙殺されている中《うち》に、白樺の林の奥の方から強力な携帯電燈の光りがギラリギラリと現われて、患者の間を匐いまわりながらダンダンと私の方へ近附いて来た。私は電池の切れかけている私の電燈に引較《ひきくら》べて、その蓄電装置らしい冴え返った光芒を羨ましく思った。誰かこっちへ加勢に来るのではないかと期待しいしいチョイチョイその方向を見ていると、その光りの持主は思いがけない司令官のワルデルゼイ軍医大佐である事がわかった。
 軍医大佐は足の踏む処も無く並び重なっている負傷兵の傷口を一々点検しているらしい恰好である。その傍には工兵らしい下士卒が入れ代り立代り近附いて来て、大佐が指さした負傷兵を手取り足取り、引立てながらどこかへ連れて行く様子である。
 私は軍医大佐の熱心ぶりに感心してしまった。
 昼間見た時の同大佐はヒンデンブルグ将軍を小型にしたような、イヤに傲岸《ごうがん》、冷血な人間に見えた。今頃はズット後方の掩蔽《えんぺい》部かキャムプの中で、どこかの配給車が持って来た葉巻でも吹かして納まり返っている事と思っていたが、まさかにこれ程の熱情を持って職務に
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