らなかった。却《かえっ》て何となく嬉しそうに注射器と澄夫の顔を見比べてニコニコしていたが、注射が済むと、何と思ったか急に温柔《おとな》しく手を離して、伝六郎と一作に手を引かれながら、繿縷《ぼろ》の腰巻を引擦り引擦り立ち上った。もう真暗になった軒下を、裏手の物置納屋の処へ来た。
 納屋の前まで来た時、彼女はモウ眠気を感じているらしかった。先に立った一作が造ってくれた古藁と、古|茣蓙《ござ》の寝床へコロリと横になって眼を閉じた。大きな腹の上に左手を投げかけると、もうスヤスヤと寝息を立てていた。

 嘗《かつ》て殿様のお鷹野《たかの》の時に、御休息所になったという十畳の離座敷《はなれざしき》は、障子が新しく張換《はりか》えられ、床の間に古流の松竹が生《い》けられて、寂《さ》びの深い重代の金屏風《きんびょうぶ》が二枚建てまわしてある。その中に輪違いの紋と、墨絵の馬を染出《そめだ》した縮緬《ちりめん》の大夜具が高々と敷かれて、昔風の紫房の括枕《くくりまくら》を寝床の上に、金房の附いた朱塗の高枕を、枕元の片傍《かたそば》に置いてあった。
 その枕元に近い如鱗《じょりん》の長火鉢の上に架《か》かった鉄瓶からシュンシュンと湯気が立っていた。
 仲人栗野博士から、唖女に対する伝六郎の口上を、身振り手真似、声色《こわいろ》入りで聞かされた花嫁の初枝は、たしなみも忘れて、声を立てながら笑い入った。そうして、
「まあまあ大事にしてやんなさい。医者の人気というものはコンな事から立つものじゃけに……そのうちに私が県庁へ手続きをして行路病人の収容所へ入れて上げるけに……」
 という博士の話を聞いて初枝はスッカリ安心したらしく、両手を突いて頭を下げながらホッとタメ息をしてみた。しかし新郎の澄夫は両手をキチンと膝に置いて頸低《しなだ》れたまま、ニンガリもせずに謹聴していた。
 それから博士夫妻の介添《かいぞえ》で、床盃《とこさかずき》の式が済んで二人きりになると、最前から憂鬱《ゆううつ》な顔をし続けていた澄夫は、無雑作に………………、………………………………………………………………………。塗枕と反対側の床の間の方を向いて、両腕を組んで、両脚を縮めたまま凝然《じっ》と眼を閉じた。
 澄夫の着物を畳んで、衣桁《いこう》にかけた花嫁の初枝は、…………………………………………、…………………、……………………。………………………………………………、透きとおるような声で、
「おやすみ遊ばせ」
 とハッキリ云うと、石のように頬を固《こわ》ばらせたまま冷然と眼を閉じている………………………………………………………、……………………………………………………………、出来るだけ静かに………………………、……………………………………。
 しかし澄夫は動かなかった。呼吸をしているのか、どうかすら判然《わか》らない位|凝然《じっ》と静まり返っていた。初枝も天鵞絨《びろうど》の夜具の襟《えり》をソット引上げて、水々しい高島田の髱《たぼ》を気にしいしい白い額と、青い眉を蔽うた。
 白湯《さゆ》の音がシンシンと部屋の中に満ち満ちた。
 新郎――澄夫は、その白湯の音に耳を澄ましながら、物置の中に寝ている唖女の事ばかりを一心に考え続けていた。

 それは去年の八月の末の事であった。
 暑中休暇の数十日を田舎の自宅で潰《つぶ》して、やっとの事で卒業論文を書上げた彼は、正午《ひる》下りの晴れ渡った空の下を、裏山の方へ散歩に出かけた。
 彼の両親はもう、三個月ばかり前に老病で相前後して死んでいた。後の医業《しごと》は彼の父の友人で、伜《せがれ》に跡目を譲って隠居している隣村の頓野老人が来て、引受けてくれていたので、彼はただ一生懸命に勉強して大学を卒業するばかりであった。しかも天性|柔良《じゅうりょう》で、頭のいい彼は、各教授から可愛がられていたし、自分自身にも首席で卒業し得る自信を十分に持っていた。卒業論文が出来上れば、もう心配な事は一つも無いといってよかった。
 彼は完全な両親の愛の中で育ったせいであろう。庭球以外には何一つ道楽らしい道楽を持っていなかった。もちろん女なんかには、こっちから恐れて近附き得ないような所謂《いわゆる》、聖人型だったので、二十四歳の大学卒業間際まで、完全な童貞の生活を送っていた。それは大学時代の一つの秘密の誇りでもあった。
 だから来年に近附いて来た結婚に対する彼の期待は、彼の極めて健康な、どちらかといえば脂肪|肥《ぶと》りの全身に満ち満ちていた。田圃《たんぼ》道でスレ違いさまにお辞儀《じぎ》をして行く村の娘の髪毛《かみのけ》の臭気を嗅《か》いでも、彼は烈しいインスピレーションみたようなものに打たれて眼がクラクラとする位であった。
 だから、そんなものに出会うのを恐れた彼はこの時にも、わざと傍道《わきみち》へ外れて、彼の家の背後の山蔭に盛上った鎮守の森の中へフラフラと歩み入った。そのヒイヤリとした日蔭の木《こ》の間《ま》を横切って行く、白い蝶の姿を見ても、又は、はるか向うの鉄道線路を匐《は》い登って行く三毛猫の、しなやかな身体附《からだつき》を見ただけでも、云い知れぬ神秘的な悩みに全身を疼《うず》かせつつ、鎮守の森の行詰まりの細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。
 忽《たちま》ち、たまらない草イキレと、木蔭の青葉に蒸《む》れ返る太陽の芳香《におい》が、おそろしい女の体臭のように彼を引包《ひきつつ》んだ。行けば行くほどその青臭い、物狂おしい太陽の香気が高まって来た。彼は窒息しそうになった。
 むろん医学生である彼は、その息苦しくなって来る官能の悩みが、どこから生まれて来るかを知っていた。同時にその悩ましさから解放され得る或る…………誘惑を、たまらなく気附いているのであった。だから彼は、現在、蒸れ返るような青葉の芳香の中で、その誘惑を最高潮に感じたトタンに、自分のフックリと白い手の甲に……附いた。汗じみた、甘鹹《あまから》い手の甲の皮膚をシッカリと…………て気を散らそうと試みた……が……しかしその手の甲の肉から湧き起る痛みすらも、一種のタマラない……………のカクテルとなって彼の全身に渦巻き伝わり、狂いめぐるのであった。

 彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締《かみし》めて、雑木藪《ぞうきやぶ》の中を盲滅法《めくらめっぽう》に驀進《ばくしん》し初めた。あたかも背後から追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、袷衣《あわせぎぬ》一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、露《あら》わな向う脛《ずね》から内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前を遮《さえぎ》る雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロとよろめいて立佇《たちど》まった。
 彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、露《あら》わになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くから疎《まばら》に聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中《やまじゅう》の静けさがヒシヒシと身に泌《し》み透るのを感じていた。
 突然、鳥とも獣《けだもの》とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。
「ケケケケケケケケケ……」
 彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に佇《たたず》んでいたのであった。
 そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷|趾《あと》で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え覆《かぶ》さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。
 その倉庫の二階の櫺子《れんじ》窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々《こうごう》しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった夥《おびただ》しい髪毛が見えた。それが窓から挿《さ》し込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。
「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」
 その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩《くら》むほどの魅惑……白昼の妖精……。
 彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。
 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶《とだ》え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘《はず》ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」

 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。

 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛《ゆくえ》不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみの余りに首を縊《くく》って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早《もはや》、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終《しま》いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶《めと》る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦《おのの》き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手《いたで》を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲《なげう》って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐《お》い続けているところであった。
 その甘美な夢が、今、無残《むざん》にもタタキ破られてしまったのであった。
 時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微《かす》かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
 見るも浅ましい孕《はら》み女。物を得《え》言《い》わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々《いないな》。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
 ……それがさながらに悪魔の智慧《ちえ》で計劃された復讐のように残酷な、手酷《てきび》しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶《おぼえ》式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える…
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