…。
……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が更に更に神秘数層倍されて来るのであった。
彼は思わず今一度ゾッとして身体を縮めた。パッチリと眼を見開いて、静かに振返ってみると花嫁の初枝は、夜具の襟に顔を埋めてスヤスヤと眠っているようである。
彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつすこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音を窃《ぬす》み窃み渡殿《わたりどの》伝いに母屋《おもや》の様子を窺った。
家中が森閑《しんかん》と寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えてしまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言《ねごと》とも歌とも附かぬグウダラな呆《ぼ》け声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。
薬局の三方|硝子《ガラス》窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏《はたんきょう》の花が、鉛色の影を大地一面に漂《ただよ》わしていた。
中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚《みと》れていた。そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂《いわゆる》成功者、すなわち立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を蹂躙《じゅうりん》し、踏殺《ふみころ》して来たかを聯想し、想起し続けていた。
……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間にならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、淋《さび》しい廃物同然の唖女の一生と釣換《つりか》えにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。咎《とが》められるところもない。ただ他人に見咎《みとが》められさえしなければ……疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。
そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような寒さを感じ初めたので、彼はハッとして吾《われ》に帰った。
頭のシンは睡《ね》むくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っているような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出《ひきだし》から小さなカプセルを一個取出した。それから突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶を抓《つま》み出して、その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してからカプセルの蓋をシッカリと蔽《おお》うた。それから何もかもモト通りに直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。
その時に彼の背後の、開放《あけはな》しにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿《わたりどの》の入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が思わず、深いタメ息をさせられた。
彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入りのカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探《つまさぐ》った。薬局の横の扉の掛金を外《はず》して、勝手口の外側に出た。
軒下の暗がり伝いに足音を窃《ぬす》み窃み、台所の角に取付けた新しいコールタ塗《ぬり》の雨樋《あまどい》をめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の廂合《ひさしあ》いの下に来た。
そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする土蔵の壁を、真四角に区切っていた。
彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔《まひ》しているであろう唖女の眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。
……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサと藁《わら》の音がし初めた。たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、………………………唖女が飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。
「キイキイキイ……キキキキキ……」
その鵙《もず》さながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に響き渡って消え失せた。
彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。全身にゾーッと生汗《なまあせ》を掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、その彼の怯《おび》えた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。
そこには離座敷から、彼の行動を跟《つ》けて来たらしい花嫁の初枝の、冴え返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、高島田の金元結《きんもとゆい》の艶《なま》めかしい、黒い大きな瞳を一パイに見開いた人形のような瓜実顔《うりざねがお》が、月の光りに浮彫《うきぼ》りされたまま、半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。
彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。
それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。鬢《びん》のホツレ毛が二三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかり瞬《またた》いたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと月の光りを帯びて、土の上に滴《した》たり落ちるのが見えた。
彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。
その時に彼に取縋《とりすが》っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。
「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に引擦《ひきず》った燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》の裾に、白い脛《すね》と、白い素足が交《かわ》る交る月の光りを反射しいしい、彼の眼の前に近付いて来た。
彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。
底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年9月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年6月21日公開
2006年3月14日修正
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