エベエベエベエベエベ」
「コン畜生。唖女《おしやん》の癖にケチを附けに来おったな。コレ行かんか。殺すぞ」
 一作が薪割用の斧《おの》を振上げて見せると、唖女《おしおんな》は、両手を合わせて拝みながら、蓬々たる頭を左右に振立てた。下腹部《したはら》を撫でて見せながら今一度叫んだ。
「エベ……エベ……エベエベエベ」
 その時に栗野博士夫婦が玄関へ出て来た。
「コレコレ。乱暴な事をしちゃ不可ん。穏やかにして追返さんと不可《いか》ん」
 唖女が急に向直って栗野博士のフロック姿に両手を合わせた。下腹部《したはら》を指して奇声を発し続けた。
「何だ。妊娠しとるじゃないか」
 一作が手拭を肩から卸した。斧を杖に突いてペコペコした。
「ヘエヘエ。これは先生。この唖女《おしやん》はモトこの裏山の跛爺《ちんばじい》の娘で、あそこの名主どんの空土蔵《あきどぞう》に住んでおった者で御座いますが……」
「フウム。まだ若い娘じゃな爺さん」
「ヘエ。幾歳《いくつ》になりますか存じませんが。ヘエ。去年の夏の末頃までこの裏山に住んでおりまして、父親の跛爺の門八は、村役場の走り使いや、避病院《ひびょういん》の番人など致しておりましたが……」
「フーム。村の厄介者じゃったのか」
「ヘエ。まあ云うて見ればソレ位の人間で御座いましたが、それが昨年の秋口になりますと大切な娘のこの唖女《おしやん》が、どこかへ姿を隠しましたそうで、門八爺は跛引き引き村の内外を探しまわっておりますうちに、あの土蔵の中で首を縊《くく》って死んでおりました事が、程経てわかりましたので大騒動になりましてな」
「ウムウム」
「それから後、この唖女《おしやん》の姿を見た者は一人も居りませんので……ヘエ……」
「ふうむ。誰が逃がいたのかわからんのか」
「ヘエ。それがで御座います。御覧の通り唖娘《おしむすめ》の上に色情狂《いろきちがい》で、あの裏山の中の土蔵の二階窓から、山行の若い者の姿を見かけますと手招きをしたり、アラレもない身振をして見せたり致しますので、跛の門八|爺《じい》が外に出る時には、必ず喰物を内に残いて、外から厳重《しっかり》と締りをしておったそうで御座います。それでも門八が帰りがけには、途中《みちなか》で拾うた赤い布片《きれ》なぞを持って帰ってやりますとこの花子|奴《め》が……この娘の名前で御座います……コイツが有頂天も無う喜んでおりましたそうで、その喜びようが、あんまりイジラシサに門八爺が時々、なけなしの銭をハタいて、安物の練白粉《ねりおしろい》や、口紅を買うて帰ってやったとか……やらぬとか……まことに可哀相とも何とも申様《もうしよう》の無い哀れな親娘《おやこ》で御座いましたが」
「……まあ……」と博士夫人がタメ息をして眼をしばたたいた。
「ふうむ。してみると誰かこの女にイタズラをした村の青年《わかて》が、その土蔵《くら》の戸前を開けてやったものかな」
「ヘエ。そうかも知れませぬが、跛の門八が戸締を忘れたんかも知れませぬ。だいぶ耄碌《もうろく》しておりましたで……それで娘に逃げられたのを苦に病んで、行末の楽しみが無いようになりましたで、首を吊ったのではないかと皆申しておりましたが」
「うむ。そうかも知れんのう。つまりこの娘を逃がいた奴が、門八爺を殺いたようなもんじゃ」
「ヘエ。まあ云うて見ればそげな事で……」
「しかし、それから最早《もう》、かれこれ一年近うなっとるが、どこに隠れていたものかなあこの女は……」
「それがヘエ。やっぱりどこか遠い処を、当てもなしに非人してまわりよりまする中《うち》に、誰やらわからん×××を宿して、久し振りに父親の門八爺が恋しうなりましたので、故郷へ帰って来ますと、あの裏山の土蔵は壊《と》けてアトカタも御座いませんので、途方に暮れておりまするところへ、コチラ様の前を通りかかって、御厄介になりに来たのではないかと、こう思いますが……」
「ふうん。併《しか》し物を遣っても要らんチウし、自分の腹を指《ゆび》さいて何やら云いよるではないか」
「ヘエ。もう産み月で痛み出して居るかも知れませんがなあ。ちょうどこの村から姿を隠いた時分から数えますと十月《とつき》ぐらい。………そうとすれば孕《はら》ませた者は、この村の青年かも知れませんが……ヘヘヘ……」
「うむ。困った奴じゃのう」
「何せい相手が唖女《おしやん》で、おまけの上にキチガイと来ておりますけに、何が何やらわかったものでは御座いません」
「しかしここが医者の家チウ事は、わかっとる訳じゃな」
「さあ。わかっておりますか知らん。オイオイ花チャン。ここ痛いけん」
 一作爺が自分の腹を指して見せながら、唖女《おしおんな》の顔を覗き込んだ。
 しかし唖女のお花は答えなかった。最前からの二人の問答を、自分の事と察しているらしく、無邪気な、真剣な眼付で二人の顔を代る代る見比べていたが、そのうちに、栗野博士夫妻の背後から、物珍らしそうに覗いている新郎新婦の中でも、先に立っている新郎澄夫の青白い顔に気が付くと、お花は見る見る眼を丸くして口をポカンと開いた。泥だらけの手足を躍らして小犬のように跳ね上ると、玄関の式台へ泥足のまま駈け上って、栗野博士を突除《つきの》けながら、澄夫の袴腰《はかまごし》にシッカリと抱き付いた。同時に「アッ」と小さな声を立てた花嫁の初枝を、背後から抱きかかえるようにして栗野夫人が、廊下の奥の方へ連れ込んで行った。
 澄夫はハッと度を失った。花嫁の方を振返る間もなく、唖女の両手を払い除《の》けて飛退《とびの》こうとしたが、間に合わなかった。ガッシリと帯際を掴んだ女の両腕を、そのまま逆にガッシリと掴み締めると、眼を真白く剥《む》き出し、舌をダラリと垂らした。そうして気を落付けようとしているのであろう。周章《あわ》ててその舌を嚥込《のみこ》み嚥込み眼をパチパチさせた。その顔を下から見上げた唖女はサモサモ嬉しそうに笑った。
「ケケケ……ケケケケケケケケケ……」
 若様らしい上品な澄夫の顔が、その笑い声につれて見る見る皺《しわ》だらけの鬼婆のような、又は髪毛を逆立てた青鬼のような表情に変った。反対に澄夫の方が発狂しているかのように見えた。
 栗野博士も一作爺も、澄夫と一所《いっしょ》に度を失った。
「コレコレ……退《の》かんか……」
「コラッ……コン外道《げどう》……」
 と二人が声を揃えて怒鳴り付けるうちに一作が、女の襟首へ手をかけると、古びた笈摺《おいずり》の背縫《せぬい》と脇縫《わきぬい》が、同時にビリビリと引離れかかった。その手を非常な力で跳ね除《の》けながら唖女は、涙をボロボロと流した。澄夫の顔を指し、又自分の腹部を指し示して、情なさそうな奇声を発しながらオドオドと三人の顔を見廻わした。
「エベエベ……アワアワ。アワアワアワアワ……」
 澄夫は絶体絶命の表情をした。唇を血の出る程噛んで、肩をキリキリと逆立たした。

「イヨオ。これは芽出度《めでた》い」
 という頓狂《とんきょ》な声がして、澄夫の背後の廊下から伝六郎が躍出《おどりだ》して来た。又も大盃を呷《あお》り付けて、素敵に酔払っているらしく、吉角力《きちずもう》の大関を取ったという双肌《もろはだ》を脱いで、素晴らしい筋肉美を露出している。
「ヨオヨオ。これは芽出度い、婚礼の門口に孕《はら》み女とは芽出度い、イヤア……汝《なれ》あ裏山のお花坊じゃねえかい。こん外道人間。片輪者とはいいながら親の死んだ事も知らじい、どこをウロ付きおったかい。どこの×××××をば孕《はろ》うで来おったかい。ええ。コレ……コレ……」
 と云ううちにお花の両脇の下に手を入れて軽々と抱き上げた。お花は引離されまいとする一生懸命さに、片手で色々な手真似をしいしい、線香花火のように暴れ出した。繿縷布片《ぼろきれ》の腰巻が脱け落ちそうになったまま叫び続けた。
「アワアワアワ。エベエベエベエベ。ギャアギャアギャアギャアギャ」
「アハハハ、わかったわかった。感心感心。ウムウム。エベエベエベじゃ。ベッベッ。臭いなあ貴様は……アハハハ。わかったわかった。つまり近いうちに子供が生まれるけに、この若先生に頼んで生ませてもらいたいチウのか……ウムウム。なかなか良うわかっとる。エベエベ。感心感心」
「エベエベエベエベエベ」
「ええ。泣くな泣くな。縁起の悪い。ウムウム。わかったわかったそうかそうか。よしよし。俺が頼うでやる頼うでやる。柔順《おとな》しうしとれ」
「エベエベエベエベ」
「なあ若先生。魂消《たまげ》なさる事はない。これあ芽出度い事ですばい。たとい精神異状者《きちがい》じゃろが、唖女じゃろが何じゃろが、これあ福の神様ですばい。何も知らじい来た、今日のお祝いの御使姫《つかわしめ》ですばい。何とかして物置の隅でも何でも結構ですけに、置いてやって下さいませや。本来ならば役場で世話せにゃならぬところですけれど、この村にゃ[#「村にゃ」は底本では「村にや」]設備が御座いませんけに、なあ先生。功徳で御座いますけに……きょうのお祝いに来た人間なら何かの因縁と思うて、なあ若先生……これ位、芽出度い事は御座いまっせんばい」
「……………」
「どうぞもし……どうぞ若先生。先生の病院はこの功徳の評判だけでも大繁昌《だいはんじょう》ですばい。アハハ……なあ花坊。祝い芽出度の若松様よ……トナ……さあ。花ちゃん。この手を離しなさい。柔順《おとな》しうこの帯を離しなさい。この若先生が診《み》てやると仰言《おっしゃ》るけに……」
 双肌脱《もろはだぬぎ》の伝六郎が、音に聞こえた強力で、お花の腕を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ離そうとする度に、帯際を掴まれている澄夫は式台の上でヨロヨロとよろめいた。
「コレコレ。離せと云うたら。恐ろしい力じゃ。コレコレここ、離しおれと云うたら……云うたて聞こえんけに往生するのう。袴の紐が切れるてや。ええ若先生。この袴と帯を解かっしゃれ。アトは私が引受けますけに……」
 今にも気絶しそうに生汗を滴《た》らしながら唖女の瞳を一心に凝視していた澄夫は、この時やっと気を取直したらしく、伝六郎の顔を見て真赤になった。暗涙を浮かめた瞳で背後の栗野博士を振返ると、すこしばかり頭を下げた。やっとの思いで唇をわななかした。
「誠に……恐れ入りますが、モルフィンを少しばかり、お願い出来ますまいか……一プロ……ぐらいで結構ですが……」
「オット。モルヒネなら失礼ながら私が作りましょう。長らくこの病院の留守番をさせられて、案内を知っておりまするので……」
 栗野博士の背後から頓野老人が山羊鬚を突出した。
「二番目の棚の右の端で御座ったの」
 と云ううちに自分で二つ三つうなずきながら、大仰に袴の両岨《りょうそわ》を取った頓野老人は、玄関脇の薬局にヨチヨチと走り込んだ。ホントウにこの家の案内を知っているらしく、突当りの薬戸棚の硝子《ガラス》戸を開いて、旧式の黒柿製の秘薬|筥《ばこ》を取出して調薬棚の上に置いた。その中から抓《つま》み出した小型の注射器に蒸溜水を七分目ほど入れて、箱の片隅の小さな薬瓶の中の白い粉を、薬包紙の上に零《おと》すと、指の先で無雑作に抓み取りながら注射器の中へポロポロとヒネリ込んだ。活栓《かっせん》と針を手早く添えて、中味の液体をシーソー式に動かすと、薬の残りを箱の中の瓶に返して、右手にアルコールを涵《ひた》した脱脂綿と、万創膏《ばんそうこう》を持ちながら薬局を出て来た。
「ヘッヘッヘ。わしは元来|胆石《たんせき》でなあ。飲み過ぎると胸が痛み出す。痛み出すと自分でこの注射をやって眠るのが楽しみでなあ。ヒッヒッ。この見量なら下手な天秤よりもヨッポドたしかじゃ。生命《いのち》がけの練習しとるけになあ。……さあ作って来ました。六分ゲレンの一じゃからちょうど一プロの一|瓦《グラム》じゃ。相手が相手じゃけに相当利きまっしょう。さあ……」
 澄夫は、こうした頓野老人の自慢の離れ業《わざ》を格別、驚いた様子もなく受取った。無造作に狂女の右腕を捕まえて注射した。
 唖女のお花は痛が
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