く忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微《かす》かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
 見るも浅ましい孕《はら》み女。物を得《え》言《い》わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々《いないな》。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
 ……それがさながらに悪魔の智慧《ちえ》で計劃された復讐のように残酷な、手酷《てきび》しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶《おぼえ》式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える…
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