を無くした悲しみの余りに首を縊《くく》って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早《もはや》、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終《しま》いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶《めと》る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦《おのの》き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手《いたで》を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲《なげう》って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐《お》い続けているところであった。
 その甘美な夢が、今、無残《むざん》にもタタキ破られてしまったのであった。
 時も時……折も折……忘れるともな
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