ながら前後左右を見まわした。
 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶《とだ》え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘《はず》ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」

 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。

 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛《ゆくえ》不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女
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