らなかった。却《かえっ》て何となく嬉しそうに注射器と澄夫の顔を見比べてニコニコしていたが、注射が済むと、何と思ったか急に温柔《おとな》しく手を離して、伝六郎と一作に手を引かれながら、繿縷《ぼろ》の腰巻を引擦り引擦り立ち上った。もう真暗になった軒下を、裏手の物置納屋の処へ来た。
納屋の前まで来た時、彼女はモウ眠気を感じているらしかった。先に立った一作が造ってくれた古藁と、古|茣蓙《ござ》の寝床へコロリと横になって眼を閉じた。大きな腹の上に左手を投げかけると、もうスヤスヤと寝息を立てていた。
嘗《かつ》て殿様のお鷹野《たかの》の時に、御休息所になったという十畳の離座敷《はなれざしき》は、障子が新しく張換《はりか》えられ、床の間に古流の松竹が生《い》けられて、寂《さ》びの深い重代の金屏風《きんびょうぶ》が二枚建てまわしてある。その中に輪違いの紋と、墨絵の馬を染出《そめだ》した縮緬《ちりめん》の大夜具が高々と敷かれて、昔風の紫房の括枕《くくりまくら》を寝床の上に、金房の附いた朱塗の高枕を、枕元の片傍《かたそば》に置いてあった。
その枕元に近い如鱗《じょりん》の長火鉢の上に架《か》かった
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