とする度に、帯際を掴まれている澄夫は式台の上でヨロヨロとよろめいた。
「コレコレ。離せと云うたら。恐ろしい力じゃ。コレコレここ、離しおれと云うたら……云うたて聞こえんけに往生するのう。袴の紐が切れるてや。ええ若先生。この袴と帯を解かっしゃれ。アトは私が引受けますけに……」
今にも気絶しそうに生汗を滴《た》らしながら唖女の瞳を一心に凝視していた澄夫は、この時やっと気を取直したらしく、伝六郎の顔を見て真赤になった。暗涙を浮かめた瞳で背後の栗野博士を振返ると、すこしばかり頭を下げた。やっとの思いで唇をわななかした。
「誠に……恐れ入りますが、モルフィンを少しばかり、お願い出来ますまいか……一プロ……ぐらいで結構ですが……」
「オット。モルヒネなら失礼ながら私が作りましょう。長らくこの病院の留守番をさせられて、案内を知っておりまするので……」
栗野博士の背後から頓野老人が山羊鬚を突出した。
「二番目の棚の右の端で御座ったの」
と云ううちに自分で二つ三つうなずきながら、大仰に袴の両岨《りょうそわ》を取った頓野老人は、玄関脇の薬局にヨチヨチと走り込んだ。ホントウにこの家の案内を知っているらしく、突当りの薬戸棚の硝子《ガラス》戸を開いて、旧式の黒柿製の秘薬|筥《ばこ》を取出して調薬棚の上に置いた。その中から抓《つま》み出した小型の注射器に蒸溜水を七分目ほど入れて、箱の片隅の小さな薬瓶の中の白い粉を、薬包紙の上に零《おと》すと、指の先で無雑作に抓み取りながら注射器の中へポロポロとヒネリ込んだ。活栓《かっせん》と針を手早く添えて、中味の液体をシーソー式に動かすと、薬の残りを箱の中の瓶に返して、右手にアルコールを涵《ひた》した脱脂綿と、万創膏《ばんそうこう》を持ちながら薬局を出て来た。
「ヘッヘッヘ。わしは元来|胆石《たんせき》でなあ。飲み過ぎると胸が痛み出す。痛み出すと自分でこの注射をやって眠るのが楽しみでなあ。ヒッヒッ。この見量なら下手な天秤よりもヨッポドたしかじゃ。生命《いのち》がけの練習しとるけになあ。……さあ作って来ました。六分ゲレンの一じゃからちょうど一プロの一|瓦《グラム》じゃ。相手が相手じゃけに相当利きまっしょう。さあ……」
澄夫は、こうした頓野老人の自慢の離れ業《わざ》を格別、驚いた様子もなく受取った。無造作に狂女の右腕を捕まえて注射した。
唖女のお花は痛が
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