がら、いろいろと久美子夫人に問い訊《ただ》してみると案の定……今日まで姫草ユリ子が言い立てて来た事は、一から十までと言っていいくらい、事実無根の事ばかりであった。白鷹先生の平塚往診の事実も、歌舞伎座見物の話も、当日の久美子夫人の三越の玄関での卒倒事件も、または姫草がお見舞いに伺ったという事実までも皆、彼女の驚くべき出鱈目と言う事実が判明したと言うのであった。
私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生まれ変《かわり》かと思われる姫草ユリ子の純真無邪気な姿が、見る見るレントゲンにでもかけられたような灰色の醜い骸骨の姿に解消して行く光景を幻視した。同時にタッタ今、泣きながら暗闇の紅葉坂を病院の方へ降りて行ったユリ子の姿を、浮き上るようなスパニッシュ・ワンステップのリズムと一緒に思い出しつつ、私の顔を一心に凝視している姉と妻の青|褪《ざ》めた顔を見比べながら、何とも言えない不可思議な恐怖の感じを、背筋一面に匐《は》いまわらせていた。
その時にまたも新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長い深いタメ息を一つ吐きながらコンナ奇妙な事を言い出した。
「ねえ貴方。姫草って言う娘《こ》は何て不思議な娘でしょう。まったく掴ませられている事がハッキリわかっているのに妾、どうしてもあの娘を憎む気になれないのよ。白鷹の奥さんも、やっぱり妾たちとオンナジ気持で、あの娘をお可愛がりになったに違いない事が、今やっとわかったのよ。今の今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ」
この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んでしまっている恐るべき魔力に気が付いたので、思わずホッと溜息を吐《つ》いた。……と同時に、その美しい霧か何ぞのように蔽《おお》いかぶさって来る彼女の魔力から逃れ出る一つの手段を思い付いたので……それは少々乱暴な、卑怯に類した手段ではあったが……姉にも妻にも故意《わざ》と一言も言わないまま立ち上って、今一度、玄関に出て帽子を冠《かむ》った。妙な顔をして見送る二人に何処へ行くとも言わないで靴を穿《は》いた。そのまま勢いよく紅葉坂の往来へ飛び出したが、何と言う恐ろしい事であろう。その時、坂の下一面に涯《は》てしもなく重なり合っている黒い屋根や、明滅する広告電燈や、その上に一パイに散らばっている青白い星の光までもが皆、彼女の吐き散らかした虚構《うそ》の残骸そのもののように思われるのであった。
私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の宇東《うとう》三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋《とりや》の二階に上った。そこで「面白いネタになるかも知れないが」と言うのを切出しに、彼女に関する今までの事実を逐一、包まずに説明して、一体どうしたものだろうと宇東主任の意見を聞いてみた。
自慢の船長|髯《ひげ》をひねりひねり黙って聞いていた宇東三五郎は、やがて私の顔を見てニンガリと薄笑いをした。彼一流の率直な口調で質問した。
「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせて貰わにゃならん」
「何も告白する事はないよ。今の話の外には……」
「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係もないチュウのじゃな」
「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」
「わかった、わかった。それでわかったよ」
宇東三五郎は突然マドロスパイプを差し上げて叫んだ。
「わかった、わかった。赤たん赤たん」
「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」
「赤チュウタラ赤たん。主義者《アカ》以外に、そんげな奇妙な活躍する人間はおらんがな。現在、そこいらで地下運動をやっとる赤の活動ぶりソックリたん。まだまだ恐ろしいインチキの天才ばっかりが今の赤には生き残っとるばんたん。そんげな女《おなご》をば養う置《と》くかぎり、今にとんでもない目に会うば……アンタ……」
「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし真逆《まさか》にあの娘が、そんな大それた……」
「いかんいかん。それが不可《いか》んてや、そんげ風に思わせるところが、赤一流の手段の恐ろしいところばんたん。赤にきまっとる。赤たん赤たん。それ以外にソンゲな奇怪な行動をする必要がどこに在るかいな。その姫草ちゅう小娘は、君の病院を中心にして方々と連絡を保っとる有力な奴かも知れんてや」
「ウ――ム。それはそう思えん事もないが、しかし僕の眼には、ソンナ気ぶりも見えないぜ」
「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見えるくらいの奴なら、モウとっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」
「フ――ム。そんなもんかなあ」
「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」
「エッ。特高課長……」
「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと不可《いか》んばい。悪うは計らわんけにのう」
「何処だい特高課長は……遠いのかい」
「知らんかアンタ」
「知らんよ」
「知らんて、君の自宅《うち》の隣家《となり》じゃないか」
「エッ。隣家……」
「うん。田宮ちゅう家がそうじゃ。迂闊《うかつ》やなあ君ちゅうたら……」
「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」
「その何草とか言う小娘は、君の家よりもその隣家が目標で、君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」
「成る程なあ。その田宮ちゅう男なら二、三度門口で挨拶した事がある。瓦斯《ガス》を引く時にね。人相の悪い巨《おお》きな男だろう」
「ウン。それだ、それだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで……チョット待て、支局から電話をかけて置こう」
話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。
私は何となく胸を轟かしながら宇東と一緒にタキシーに飛び乗った。
田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。
長脇差の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある田宮氏は、褞袍《どてら》のまま紫檀の机の前に端然と坐って、朝日を吸い吸い私の話を聞いてくれたが、聞き終ると腕を組んで、傍の宇東記者をかえり見た。つぶやくように言った。
「赤じゃないかな」
それを聞いた時、私はまたもドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る恐る尋ねた。
「赤としたらどうしたらいいでしょうか」
田宮氏は冷然と眼を光らせた。
「引っ括《くく》って見ましょうや」
「……エッ……引っ括る……どうして……」
「明朝……イヤ……今朝ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わせますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」
「そ……それはどうも困ります」
と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。
「実はそこのところをお願いに参りましたので、臼杵君も開業|※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》赤の縄付を出したとあっては……」
「アハハ。いかにも御尤《ごもっと》もですな。それじゃこう願えますまいか。明朝なるべく早くがいいですな。何かしら絶対に間違いのない用事をこしらえてその娘を外出させて下さいませんか。行先がわかっておれば尚更結構ですが」
「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の巨大《おおき》な擬金剛石《アレキサンドリア》を一|個《つ》持っております。姉も妻もアレキサンドリアが嫌いなので、始末に困っておるのですが、それをあの娘に与《や》って、直ぐに指環に仕立るように命じて伊勢崎町の松山宝石店に遣りましょう。遅くとも九時から十時までの間には、出かける事と思いますが……十時頃から忙しくなって来ますから」
「結構です。しかし近頃の赤はナカナカ敏感ですから、よほど御用心なさらないと……」
「大丈夫と思います。今夜、ここへ伺った事は誰も知りませんし……それに妻《かない》がズット前、姫草に指環を一つ買って遣るって言った事があるそうですから……」
「成る程ね。それじゃソンナ都合に……」
「承知しました。どうも遅くまで……」
そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服《の》まなければ睡られないような惨憺《さんたん》たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手《たかてこて》に縛り上げられて病院を引摺《ひきず》り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘《うな》されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。
それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常《いつも》の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。
しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況《いわ》んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽《こっけい》を通り越して何の事だかわからない。
姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。
姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘《おび》えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家《となり》の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落《らいらく》な調子で、投げ出したように言うのであった。
「あれは赤ではありませんよ」
「ヘエ……」
と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。
「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家|土蔵《くら》をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦《くら》ましているそうで、年|老《と》った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構《うそ》らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院
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