少女地獄
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白鷹秀麿《しらたかひでまろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丸の内|倶楽部《くらぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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何んでも無い
白鷹秀麿《しらたかひでまろ》兄[#「白鷹秀麿《しらたかひでまろ》兄」は1段階大きな文字] 足下
[#地から2字上げ]臼杵利平
小生は先般、丸の内|倶楽部《くらぶ》の庚戌会《こうぼくかい》で、短時間|拝眉《はいび》の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵《うすき》耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。
姫草ユリ子が自殺したのです。
あの名前の通りに可憐な、清浄無垢《せいじょうむく》な姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪咀《のろ》いながら自殺したのです。あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想《もうそう》によって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、その虚構《うそ》の天国を構成する材料に織込《おりこ》んで来たつもりで、却って一種の戦慄《せんりつ》すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬《ほうむ》り去らなければならなくなったのです。その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂《いわゆる》、永劫《えいごう》の戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。
その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の裡面《りめん》に脈動している摩訶《まか》不思議な少女の心理作用の恐しさ。その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。
しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。
本日の午後一時頃の事でした。
重態の脳膜炎《のうまくえん》患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子《ガラス》窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷《すべ》り込んで来ました。
跳《は》ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。年の頃は四十四、五でしたろうか。顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁《はなすじ》の左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体《からだ》に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖《スネキウッド》という微塵《みじん》も隙のない態度風采で、診察室の扉《ドア》を後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ち佇《どま》って、慇懃《いんぎん》に帽子を脱《と》って、中禿を巧みに隠した頭を下げました。
軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。
「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子《サイドチェア》を進めました。
「私が臼杵です」
しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を利《き》きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣《チョッキ》の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍《そば》の小卓子《カードテーブル》の上に置いて私の方へ押し遣りました。
そこで私は滑稽にも……サテは唖《おし》の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。
私は唖然《あぜん》となってその男の顔を見上げました。背丈《せい》が五尺七、八寸もありましたろうか。
「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
と即答をしましたが、その刹那《せつな》に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞《くそ》でも啖《く》らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面《うわべ》にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。
相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付《めつき》で十数秒間、凝視《ぎょうし》しておりましたが、やがてまた胴衣《チョッキ》の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭《うやうや》しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
白い封筒の中味はありふれた便箋《びんせん》でしたが、文字は擬《まが》いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。
[#ここから1字下げ]
「白鷹先生
臼杵先生
妾《わたし》は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅《まんだら》先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
白鷹先生 臼杵先生
お二人様の妾に賜《たま》わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞《ふさ》ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実《まごころ》が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐《いきがい》がありましょう。
さようなら。
白鷹先生 臼杵先生
可哀そうなユリ子は死んで行きます。
どうぞ御安心下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
昭和八年十二月三日[#地から1字上げ]姫草ユリ子 」
この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆《あき》れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。
「ヘエ。貴方《あなた》がこの手紙の曼陀羅先生で……」
「そうです」
相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。
「モウ死骸は片付けられましたか」
「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」
「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」
「さようです」
「何で自殺したんですか」
「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。何処《どこ》で手に入れたものか知りませんが……」
ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。
曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち歪《ゆが》んだ唇が軽く動き出しました。
「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット治癒《なお》りかけたと思いますと……」
「耳鼻科医《せんもんい》に診《み》せられたのですか」
「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医《せんもん》でなくとも院内《うち》で遣《や》っております」
「成る程……」
「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」
「付添人も何もいなかったのですか」
「本人が要《い》らないと申しましたので……」
「いかにも……」
「キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書《かきおき》は枕の下にあったのですが……」
「検屍はお受けになりましたか」
「いいえ」
「どうしてですか。医師法|違反《いはん》になりはしませんか」
相手は静かに私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。
「検屍を受けたらこのお手紙の内容が表沙汰になる虞《おそれ》がありますからね。同業者の好誼《よしみ》というものがありますからね」
「成る程。ありがとう。してみると貴下《あなた》はユリ子の言葉を信じておられるのですね」
「あれ程の容色《きりょう》を持った女が無意味に死ぬものとは思われません。余程の事がなくては……」
「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を玩具《おもちゃ》にして、アトを無情に突き離して自殺させたと信じておられるのですね……貴下は……」
「……ええ……さような事実の有無《うむ》を、お尋ねに来たんですがね。事を荒立てたくないと思いましたので……」
「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」
「いいえ。何《なん》でもないのですが、しかし……」
「アハハ。そんなら貴下も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に欺瞞《だま》されて、医師法違反を敢《あ》えてされたのです」
相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。
「怪《け》しからん……その証拠は……」
「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに判明《わか》る事です」
「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いもない死人の遺志を冒涜《ぼうとく》するものです」
「呼んでもいいですね」
「……是非……すぐに願います」
私は卓上電話器を取り上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に繋《つな》いで貰った。
「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院の臼杵です。先般は姫草の件につきましていろいろどうも……ところで早速ですが……お忙しいところまことにすみませんが、直ぐに病院《こちら》へお出で願えますまいか。姫草ユリ子の行方がわかったのです。……イヤ死んでいるのです。ある処で……実はその姫草ユリ子の被害者がまた一人出て来たのです。イヤイヤ。今度のは本物です。だいぶ被害が深刻なのです
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