。築地の曼陀羅病院長と仰言《おっしゃ》る方ですが……そうです、そうです……聞いた事のない病院ですが……例の彼女一流の芝居に引っかかって医師法違反までさせられたという事実を説明しに、わざわざ僕の処に来ておられるのですが。姫草ユリ子の自殺屍体の遺骨を保管しておられると言うのですが……そうです、そうです。とんでもない話ですが事実です。今ここに待っておられるのです。是非貴方にお眼にかかりたいと言って……ああ。もしもし……もしもし……モウ曼陀羅院長は帰りかけておられます。帽子とステッキを持って慌《あわ》てて出て行かれます。アハアハ。モウ出て行きました。今、勇敢な看護婦が駈け出して見送っております。ちょっと待って下さい。僕が方向を見届けて報告しますから……あ。服装ですか。服装は一口に言うと黒ずくめのリュウとしたモーニングです。身長は五尺七、八寸。色の青黒い、外国人じみた立派な痩形《やせがた》の紳士……あ。脅迫用の手紙を忘れて行きました。アハアハ。この電話に驚いたらしいです。アハアハアハ。……あ。そうですか。それじゃお帰りがけにお寄り下さい。まだ話がありますから。イヤどうも失礼……すみませんでした。サヨナラ」
曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。したがって彼氏が、彼女とどんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の遺書《かきおき》を手に入れたか。いつから彼女の蔭身に付添って、どの程度の黒い活躍をしていたか……と言ったような事実はまだ推測出来ません。
しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒《いちょう》する意嚮《いこう》らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリして来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事実の一切を貴下に御報告申し上げて、後日の御参考に供して置かねばならぬ責任を感じましたから、かように徹宵《てっしょう》の覚悟で、この筆を執っている次第です。今までは余りに恥かしい事ばかりなので御報告を躊躇《ちゅうちょ》しておったのですが……否……今日まで貴下と何等の御打合わせも出来なかったのが矢張《やは》り、かの不可思議な少女、姫草ユリ子の怪手腕に魅せられて脳髄を麻痺させられていたせいかも知れませぬが……。
何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号|標題《みだし》の「謎の女」に相違ない事です。この事実は本日面会しました前記の司法当局者に、私から説明しましたので、同氏が「容易ならぬ事件」と認めて、即刻、警視庁に移牒したという理由もそこに在る事と察しられるのですが、その新聞記事によりますと(御記憶かも知れませんが)彼女は、その情夫? との密会所を警察に発見されたくないという考えから、その密会所付近の警察に自動電話をかけたものだそうです。
「妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている無垢《むく》の少女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間《すき》を見て電話をかけてるのです。助けて下さい、助けて下さい」
と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ逐《お》い遣ってしまったのです。彼女はかようにして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だと言う事がわかって、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相です。
その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の虚構《うそ》の天才である彼女が、貴下の御|懸念《けねん》になっている彼女であり、ツイこの間まで白い服を着て小生の病院内を飛び廻っておりました彼女だったことを、現在、彼女の身元引受人であった者がハッキリと主張しているのです。そうしてその主張している理由は彼女の心理状態から押して真実と認められるので、現に警察当局でもそうした主張の真実性を厘毫《りごう》も疑っていない次第です。
それにしても渺《びょう》たる一少女に過ぎない彼女が、あらゆる通信、交通機関の横溢《おういつ》している今の世の中に、しかも眼と鼻の間とも言うべき東京と横浜に在る貴下と私の一家を、かくも長い間、お互いに怪しみ、探り合わせながら、どうしてもめぐり合う事が出来ないと言う不可思議な、気味の悪い運命に陥《おとしい》れて行くと同時に、彼女自身の運命までも葬らなければならぬほどの深刻な窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのソモソモの動機は何処に在るのでしょうか。
以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中には彼女に関する貴下の御記憶と重複しているところもありましょう。または貴下の御人格を冒涜するような章句もありましょう。なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法に亙《わた》るような個所が出来るかも知れませんが、何卒《なにとぞ》、悪しからず御諒読《ごりょうどく》を願います。何《いず》れもその時の私の心境を率直、如実に告白致したいために、日記の記録する通りに文章を取纏《とりまと》めたものですから……。
姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前日の夕方であった。見事な、しかし心持地味なお納戸《なんど》の着物に、派手なコバルト色のパラソル、新しいフェルト草履《ぞうり》、バスケット一|個《つ》という姿の彼女がションボリと玄関に立った。
「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」
診察室の装飾に就いて家具屋と凝議《ぎょうぎ》をしていた私の姉と、妻の松子とは、顔を見合わせて彼女の勇敢さに感心したという。ちょうど二人雇っていた看護婦ではすこし手が足りないかも知れない……と話合っていたところだったので、早速、外来患者室に通して、私と三人で面会して一応の質問と観察をこころみた。
「新聞の広告を見て来たのですか」
「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参りました」
「ハハア。お国はどちらですか」
「青森県のH市です」
「御両親ともそこにおられるのですか」
「ハイ。H市の旧家でございます」
「御両親の御職業は……」
「造酒屋を致しております」
「ほお。それじゃ失礼ですが、お実家《うち》は御裕福ですね」
「ええ。それ程でもございませんけど……妾が東京に出る事に就きましても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかったんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてたまらなかったもんですから……」
「それじゃ今では御両親と音信を絶っておられるんですか」
「いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の罐詰《かんづめ》会社に奉公しております」
「学校は何処をお出になったの」
「青森の県立女学校を出ておりますの」
「看護婦の仕事に御経験がありますか」
「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町《しなのまち》のK大の耳鼻科に入りましてズット今まで……」
「そこを出て来た事情は……」
「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」
「いやな事ってドンな事ですか」
「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」
「ふうむ。貴女の身元保証人は……」
「あの。下谷《したや》で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけないでしょうか」
「どうして兄さんに頼まないんですか」
「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」
「お名前は……」
「姫草ユリ子と申しますの」
「姫草ユリ子……おいくつ……」
「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」
これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを提《ひっさ》げて職を求めつつ街を彷徨《ほうこう》する彼女の健気な、痛々しい運命に、衷心《ちゅうしん》から吸い付けられてしまっていた。
笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。
けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起《よびおこ》して、一種のローマンチックな、尖鋭な同情の断面を作って彼女に働きかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌《あく》る日、
「ねえお姉様。あの娘《こ》が万一《もし》、看護婦が駄目だったら女中にでも使って遣りましょうよ。ねえ、可哀そうですから」
「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖《ふ》えるでしょうから」
と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。
そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁《はなすじ》であった。
彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が如何《いか》にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけに彼女が人の好い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。
私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。
こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われてから一週間と経たぬうちに俄然として見違えるような美少女となって、病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして遣《や》った翌る朝、薄化粧をして「お早ようございます」と言った彼女の笑顔を見た瞬間に……これは大変な事をした。とんでもない美人にしてしまった……と肝を潰したくらいであった。
しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれくらいの事では済まなかった。
彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻科のお仕込みもさる事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させられて、衷心《ちゅうしん》から舌を巻かされたのであった。
彼女が私の病院に来てから間もなく私がある中年紳士の上顎竇《じょうがくとう》蓄膿症の手術をした時に、初めて助手を命ぜられた彼女は、忙しく動いている私の指の間から、麻酔患者の切り開かれた上唇の間に脱脂綿をスイスイと差し込んで、溢《あふ》れ流れる血液を拭き上げて、切開部をいつも私の眼によく見えるようにして行った。その鮮やかな、狃《な》れ切った手付を見た時に私はゾッとするぐらい感心
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