な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈《いつく》しんで、末永く自宅《うち》に置いて世話をして遣りたい。間違いのないようにという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせるように取り計らったが、これに対してはさすがの白鷹氏も、一言の抗議さえ敢《あ》えてしなかったと言う。
ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端《はし》なくも彼女に職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視している上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触《さわ》ると妬《ねた》み、羨み始めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造《ねつぞう》して、八釜《やかま》しく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退《ひ》く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅《うち》に引き取る事になったという。それが本年の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち着いたのでホッと一息した……と言う彼女の告白であった。
「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかすると白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになるかも知れない。そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もない虚構《うそ》吐き女のインチキ娘に見えるように、お仕向けになるかも知れない…と気が付きますと、いても立ってもおられなくなって、先生のお帰りをあすこで待っているよりほかに妾、仕様がなくなったんですの。
……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を記憶《おぼ》えてお出でになるでしょう。妾、あの時に何だかコンナ事が起りそうな気がして仕様がなかったもんですからアンナ風に躊躇したんですけど、大切な先生がアンナに熱心にお頼みになるもんですから、思い切って妾の事なんか構わないで、白鷹先生にお電話をかけたんですの。
……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにならなかった理由《わけ》が、最早《もう》おわかりになったでしょう。白鷹先生は貴方が最早、妾から何もかもお聞きになっている事と思い込んでお出でになるもんですから、先生から顔を見られる事を、どうしてもお好みにならなかったんですよ。……ですから一度は是非とも会わなければならない。けれども会いたくない……と言ったような気持から、あんなような策略を何度も何度もお使いになったに違いないと思うんですの。あたし……白鷹先生の、そう言ったお気持がよくわかっていたもんですから……口惜《くや》しくって口惜しくって……。
……あたし……他家《よそ》のお家庭《うち》の秘密なんか無暗《むやみ》に喋舌る女じゃないのに……妾をドコまでもペシャンコのルンペンにして、世の中に浮かばれないようになさるなんて……先生のおためばっかり思って上げているのに……K大でアンナに一所懸命に働いて上げたのに……あんまり……あんまり……あんまりですわ……」
彼女は路傍の砂利積に撒布《まい》た石灰の上に黒い洋傘《コーモリ》を投げ出して、両袂を顔に当てながら泣きジャクリ始めた。
気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二、三人、妙な眼付で振り返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであろう。
私はヤットの思いで彼女をなだめ賺《すか》して病院に帰らせた。しかしその時にドンナ言葉で彼女を慰めたか、全く記憶していない。万一記憶していたらドンナにか白鷹氏の憤慨に価する言い草ばかり並べていた事であろう。
直ぐ横の石段を上って、露地の突き当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分近く進んでいたにしても彼女との立ち話がずいぶん長かった事を思い出して、私は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家の中の気はいを察して、吾れ知らずホ――ッと胸を撫《な》で卸《おろ》した事であった。
ところがその安心は要するに私の一時の糠《ぬか》喜びに過ぎなかった。電車の中で私が抱き続けて来た一種異様な鬼胎観念《しんぱい》は、やはり意外千万な意味で物の美事に的中していたのであった。
心持ち昂奮気味で、慌しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私の顔を見るや否や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、
「白鷹先生にお会いになって……」
と左右から詰問するのであった。
「ウン会ったよ」
「姫草さんとは……」
「今、そこまで話して来た」
姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮かんでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を脱《と》った瞬間に私は、探偵小説の深夜の一ページの中に立たされている私自身を発見したような鬼気に襲われたものであった。
「姫草さんとドンナお話をなすったの」
「ウム。まあお前達から話してみろ」
「貴方から話して御覧なさいよ」
「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」
「だって貴方……」
「茶の間へ行こう。咽喉《のど》が乾いた」
それから熱い番茶を飲みながら二人の女の話を聞いているうちに何と……今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。
私の留守中に、病気で寝ておられるはずの白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐに下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時にこの上もなく友誼的《ゆうぎてき》な口調で、白鷹夫人が私の一家に対して警告してくれたものであった。
相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。
勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な虚構《うそ》の名人であった事も周知の事実であったと言うのである。
すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の敏捷《びんしょう》な外交手腕でもって他人を押し除けて看護の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も姫草と言わせるように仕向けないでは措《お》かないのであった。その結果、どうして手に入れたものか、そのような患者から貰ったと言う貴重品なぞを、自慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。
そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤《たね》を宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明け(?)て、長い事病院を休む。そのほか医員の甲乙《たれかれ》と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂《うわさ》に立てる……と言った調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科長、大凪《おおなぎ》教授の好意によって諭示退職の処分をされる事になったという。
しかし以前からメソジストの篤信者《とくしんじゃ》であった白鷹久美子夫人は、かねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折って虚構《うそ》を吐《つ》かないように教育した。キリストの聖名《みな》によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。
ところが、それが彼女に取っては堪《た》まらなく窮屈なものであったらしい。とうとう無断で白鷹家を飛び出して行方を晦《くら》ましてしまったので、何処へ行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛って来て、今は横浜の臼杵病院にいる。妾も、それから後、虚構を吐くのをピッタリと止めて、臼杵先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと言う。
しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を攪乱《かくらん》しようと思っているに違いない。それにつれてK大や白鷹家の事に就いても、どんな出鱈目《でたらめ》を臼杵先生に信じさせているか解らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づけで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであるが、それは多分、彼女が握り潰したものであろう、一度も返事が来なかった。
白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂《たか》まる事になった。これはもしかしたらあの嘘吐きの名人の言葉を真正面から信じ切っている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取り合わない事にキメているのではあるまいか。しかし、そうかと言って、あんまり執拗《しつこ》い、急迫した手段で、臼杵家に交際の手蔓《てづる》を求めるのも、こっちが狼狽しているようでおかしい……と言ったようないろいろな気兼《きがね》から、いよいよ形容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な不安に陥って行った。殊に気の小さい、神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で寄ると触ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、何かまたあの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけといた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だった……と言う久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておられないほど、赤面させられてしまったという。
しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を鼓《こ》して通話を伸ばして貰いな
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