へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢《とし》を誤魔化《ごまか》して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目《でたらめ》でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」
「ヘエ。全然赤じゃないんですね」
「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」
「そうするとあの女は、つまり何ですか」
「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」
「ヘエー。ほんとうですか」
「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣《や》ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」
「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻《か》かせたんでしょう。根も葉もない事を……」
「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙《わた》っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」
 鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆《あほう》みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。
「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」
「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」
「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」
「何が余計な事だ。些《すくな》くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」
「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」
 二人はそれから威勢よく自動車《ハイヤ》に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。
 ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋《すが》ったそうである。五つ六つの子供のように、
「もうしません、もうしません、もうしません」
 と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。
 それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、
「すみません、すみません」
 と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉《のど》に通らないようであった。
 ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。
 わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。
 スッカリ化《ばけ》の皮を剥《は》がれてしまって、見る影もなく悄然《しょんぼり》となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大《おおき》な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。
 しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。
 私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視《みつめ》ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。
 性急《せっかち》な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊《ただ》してみた。
 呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据《す》えて答えた。姫草に怨《うら》みでもあるかのように……。
「ハイ。姫草さんの月経来潮《メンス》は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」
 これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。
「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性《オバリヤル》か、月経性《メンスツリアル》かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症《デブレッション》[#ルビの「デブレッション」はママ]から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌《しゃべ》りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」
「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」
「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」
 さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。
「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」
「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道《ひど》い奴です。あの女は……」
 イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。
「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」
「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」
「その時にあの女を連れて行かれましたか」
「行くもんですか。一人で行ったのです」
「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」
「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」
「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構《うそ》を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」
「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝《こ》らして病院を出て行ったそうです」
「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」
「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」
「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」
「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷[#「まぼろしの谷」に傍点]とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」
「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐《けとう》と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」
「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」
「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」
「一人で行くはずはないですがね」
「むろんですとも……呆れた奴だ」
「どうも怪《け》しからんですね」
「怪しからんです……実は今朝、貴官《あなた》から、いつまでも可愛がって置いて遣《や》るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘《かか》わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」
「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」
「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」
「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」
「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」
「所謂《いわゆる》、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでし
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