仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんですよ。仲がよくってね……」
「アハハハ。何でもいいから、そのうちに……きょうでもいいから一度、君から電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」
「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」
「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」
そう言って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。
彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳《ひとみ》でチョット見上げていたが、何故か多少、悄気《しょげ》たように俛首《うなだ》れて軽いタメ息を一つした。聊《いささ》か怨《うら》めしそうな態度にも見えたが、しかし私はソレを彼女独特の無邪気な媚態《びたい》の一種と解釈していたので格別不思議に思わなかった。
「……でも妾……看護婦|風情《ふぜい》の妾が……あんまり失礼……」
「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同士じゃないか。白鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」
「ええ。そりゃあ今だって、そうですけど……」
「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて仕様《しよう》がないんだから……」
彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいような笑い顔をニッコリとして見せながら、
「ええ。妾でよければ……いつでも御紹介《おひきあわせ》しますけど……」
「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」
それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い応対であった。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉しそうに……あたかも白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのようにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。
その後ろ姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが、何ぞ計らん。この時すでに私は彼女に一杯|喰《く》わされていたので、彼女もまた同時に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子《たね》を彼女自身の手で萌芽させていたのであった。
彼女の言う白鷹先生というのは、彼女の識っている白鷹先生とは性質の違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた……私と同様な気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はずみな事を彼女に頼んだ次第であった。
ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編《あ》み出す事になった。……と言うのは御本人の白鷹先生も御存じないK大耳鼻科の白鷹先生から、白昼堂々と電話がかかって来たのであった。
私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼女が電話口から診察室に飛んで来た。
「先生。先生。白鷹先生からお電話です」
大勢の患者を診察していた私は驚いて振り返った。
「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」
「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございません。ですから妾、昨日お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙しい時間もチャンとそう言って置きましたのに……今頃お掛けになるなんて……」
と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を顰《ひそ》めるのであった。こうした技巧と言ったら、それこそ独特の天才と言うべきものであったろう。実に真に迫ったものがあった。彼女と、彼女の創作した白鷹先生との親密さに就いて、微塵の疑いをさし挾む余地もないくらい真に迫ったものであった。
電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に非《あら》ざる白鷹先生は、彼女の説明通りに、如何にも快活らしい朗らかな声の持主であった。しかも、それがほとんど私に一言も口を利かせないまま、一気に喋舌《しゃべ》り続けた。
「ヤア。臼杵君か。暫く。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良過ぎるもんだから看護婦長から憎まれてね。とんでもない濡衣《ぬれぎぬ》を着せられて追い出されちゃったんだよ。僕の妻《かない》が非常に可愛がっていたんだがね。イヤ。本人も喜んでいるよ。この間と昨日と二度電話をかけてね。君ん処《とこ》は非常に居心地がよくて働き甲斐《がい》があるってね。そう言うんだ。ウンウン。妻も聞いて喜んでいるんだ。何しろ娘みたいに可愛がっていたんだからね。ウンウン。看護婦になるって青森県を飛出したところなんかは少々馬鹿かも知れないがね。看護婦に生まれ付いているのだろう。仕事は実に申し分ないんだ。僕が保証するよ。可愛がってくれ給え。ハハハ。イヤ久し振りに君に会ってみたいんだ。どうだい。相変らず飲めるかね。ウン結構結構。……ところで君は在京の耳鼻咽喉科の医者連中がやっている庚戌会《こうぼくかい》って言うのを知っているかね。それだ。ウンウン。九州にいる時分に聞いていた。明治四十三年の庚戌の年に出来た会……ウン。それだ、ナアニ。毎月一回ずつ三日か四日の日に、みんなが寄って旧交を温めたり、不平を言い合ったりして飲んだくれる会さ。ステキに朗らかな会なんだ。それが来月は三日にきまったからね。場所は丸の内倶楽部……午後六時からなんだが、君やって来ないか。会費なんかその時次第だがイクラもかからない。ウン是非来てくれ給え。ウンウン。アハアハ。まだお眼にブラ下らないが奥さんにもよろしく……」
と言ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が立っていて、可愛らしく小首を傾《かし》げながら、
「まあ。断《き》っておしまいになったの。あたしからもお話したかったのに……でも、どんなお話でしたの……」
と心配らしく眼を光らしているのであった。
「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」
「……でしょうね。そりゃあ面白い方よ」
それから電話の内容を話して聞かせると、如何にも安心したらしく、さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。
「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大好き……」
なぞと感激に満ち満ちた、軽い独言《ひとりごと》を言いながら……すこしの不自然もなく私に聞こえよがしに言いながら……。
ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、平生《いつ》になく不機嫌な顔をした彼女が、揉《も》みくしゃにした便箋を手に握りながら、妙に身体をくねらして私の前に立った。可愛い下唇を反《そ》らして言うのであった。
「ほんとに仕様のない。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」
「どうしたんだい。独りでプンプンして……」
「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞《へたくそ》の義太夫の会を開くたんびに、白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄なんですよ。つまらない……」
「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖《ふ》えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」
「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」
「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」
「……だって」
と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に偽装《カモフラージュ》しようと試みていた彼女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている虚構《うそ》の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷たい舗道の上に放逐されなければならなくなるではないか。こうした女性に取って、そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯《しゅこう》し得るところであろう。
事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の辣立《よだ》つ地獄絵巻を、彼女自身に繰り拡げて行ったのであった。
その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。
「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」
「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」
「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」
「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」
「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」
「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」
「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」
「この間お約束なすったんじゃございません」
「イイヤ。約束なんかした記憶《おぼえ》はないよ」
「まあ。そんならいいんですけど……」
「どうしたんだい」
「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」
「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」
「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」
「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」
「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる虞《おそれ》がありますから、失礼させますって、そう言っとき給え」
「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」
「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」
こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、
「この間はすまなかった。いつも間が悪く
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