て君に会う機会がない。きょうは歌舞伎座の切符が二枚手に入ったから一緒に見に行かないか。午後一時の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っているカフェーかレストランがあるだろう」
という話だったが、生憎《あいにく》、私が行けないと姫草が言ったとかで、あとから歌舞伎座の番組と一緒に妻と子供へと言って風月《ふうげつ》のカステラを送って来たりした。しかもその小包に添えた手紙を見ると紛《まぎ》れもない男のペン字で、相当の学力を持ったインテリ式の文句であった。だからこちらでも非常に恐縮して、折よく故郷から送って来た鶏卵素麺《けいらんそうめん》に「今度の庚戌会へは是非とも出席します」と言う意味の手紙を添えて、下六番町の白鷹先生宛に送り出したが、それは何処へ届いたやら、あるいは横浜の臼杵病院を一歩も出なかったかも知れないと思う。その手紙や小包を渡して、送り出すように命じたのが、外《ほか》ならぬ姫草ユリ子だったから……。
ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女はまたも大変な失策を演じた。もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩《も》らさぬ筋書に見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一家から、彼女自身の正体を見破られる破目に陥ったのであった。
私の日記を翻して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬へかけた数日のうちで、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった事を神様以外の何人が察し得たであろう……。
その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に出勤すると、玄関の扉《ドア》の音を聞くや否や、彼女が薬局から飛び出して、私の胸に飛び付きそうに走りかかって来た。唇の色まで変ったヒステリーじみた表情をしていた。
「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今お自宅《うち》で介抱を受けていらっしゃるんですって……」
「そりゃあ、いけないねえ。何時頃なんだい」
「今朝、九時頃って言うお話ですの……」
「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、そんなに早く知らせたんだろう」
「だって先生。この間のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お約束なすったでしょう」
「ウン。あの手紙を見たのかい」
「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明治節ですから……」
「ふうん。僕は知らなかったよ」
「あら。この間、案内状が来てたじゃございません」
「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」
「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするから東京市外の病院の方々も参加を申し込んで頂きたいって書いてありましたわ。あの案内状どこへ行ったんでしょう」
「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」
「たしか十円と思いましたが……」
「高価《たけ》えなあ」
「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字で添書がして在りましたわ」
「ふうん。行ってみるかな」
「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引き受けたんだから今度こそは金輪際《こんりんざい》、ドンナ事があっても行くって仰言ったんですの。そうしたらまたきょうの騒ぎでしょう。あたし口惜《くや》しくて口惜しくて……」
「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい序《ついで》と言っちゃ悪いが、お見舞いに行って来て遣《や》ろう」
「まあ先生。今から直ぐに……?」
「うん。直ぐにでもいいが……」
「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」
「フーム。どうしてわかるんだい。鼻咽腔肥大《アデノイド》ってことが……」
「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに肥大《アデノイド》が指に触るんですもの」
「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」
「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから……そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の肥大《アデノイド》に指が触ったと思ったら突然《いきなり》、喰付かれたんですの……コンナニ……」
と付根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。
「……見ろ。これからソンナ出裟婆《でしゃば》った真似をするんじゃないよ」
と戒《いまし》めてから私は平常の通り診察にかかったが、彼女は別にお見舞に行こうとする私を強《し》いて止めようとする気色も見せなかった。
しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。
「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」
「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」
「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」
「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」
「ありがとうございます。では行って参ります」
「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」
彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の遣《や》る瀬《せ》ない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。
いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽《ゆうひ》の中を紅葉坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序に、白鷹夫人のきょうの出来事を比較的明るい気持で喋舌《しゃべ》っていると、そのうちに黙って給仕をしていた妻の松子がフイッと大変な事を言い出した。
「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」
「……フウン……ドウ変なんだい」
「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」
「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」
「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀《たくら》んでいるような気がするの」
「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前《まい》の趣味だね。探偵小説、探偵小説……」
ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀《マージャン》の聴牌《てんぱい》を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇《ひま》に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが、しかし、そうした妻の頭の作用《はたらき》に就いて私が内心|些《すく》なからず鬼胎《おそれ》を抱《いだ》いていた事は事実であった。
だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬《やきもち》と混同するような気は毛頭起らなかった。また彼女の変痴気趣味が出たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリと感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討してみる気になった。
「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」
「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」
「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」
「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」
「オホホ。もっとすごい感じよ」
「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」
「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」
「名探偵だね。どうして会えるんだい」
「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」
「やはり丸の内倶楽部さ」
「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」
「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」
「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」
「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」
「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」
「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草ユリ子の創作した影人形だって言うんだね」
「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの娘《こ》の実家が裕福だって言うのも、当てにならない気がするし、年齢《とし》が十九だって言うのも出鱈目《でたらめ》じゃないかと思うの……」
「驚いた。どうしてわかるんだい」
「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮《あご》の処へ小さな皺《しわ》が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増《としま》としか見えなかったのよ」
「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」
「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……」
「怪談怪談。妖怪《おばけ》エー……キャアッと来そうだね」
「冷やかしちゃ嫌。真剣の話よ。つまり平常《いつも》はお化粧と気持で誤魔化《ごまか》して若々しく、無邪気に見せているんでしょうけど、誰も見ていないと思って考え込んでいる時には、スッカリ気が抜けているから、そんな風に本性があらわれているんじゃないかと思うのよ」
「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。キット成功する」
「まあ。あたし真剣に言ってんのよ。自烈《じれっ》たい。本当にあの人、気味が悪いのよ」
「そう言うお前の方がヨッポド気味が悪いや」
「憎らしい。知らない」
「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの娘《こ》がだね。姫草ユリ子が、何の必要があってソンナ骨の折れる虚構《うそ》を巧謀《たくら》むのか、その理由が判明《わか》らんじゃないか。今までに持ち込んで来たお土産の分量だって、生優しい金高じゃないんだからね。おまけにおりもしないモ
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