それはこの世に又とない校長先生の悪徳を、眼も眩《くら》むほど美しく、上品に飾り立てた芝居だったのですから。それは私以外の人達が一人も気付いてお出でにならない……そうして同時にタッタ一人私だけを苛責《いじ》め、威かすために執行《とりおこな》われた、世にも恐ろしい、長たらしい拷問《ごうもん》だったのですから……。
最初に全校の生徒の「君が代」の合唱がありましたが、その純真な、荘厳この上もない音律《リズム》の波を耳に致しておりますうちから私は、もう身体中がゾクゾクして、いても立ってもおられないくらい空恐ろしい、今にも逃げ出したいような気持になってしまいました。……心のドン底から震え上らずにはおられない……「君が代の拷問」……。
それからその次に、父兄代表として視学官の殿宮さんが壇上にお立ちになった時の演説のお立派でしたこと。校長先生の御高徳を、極《ご》く極く詰まらない事までも一つ一つ挙げて、説明して行かれた時の満場の厳粛でしたこと……。
校長先生の銅像の寄付金の事に就いて、教頭の小早川先生が報告をなすった後に、卒業生代表の殿宮アイ子さん……まだ何も御存じないアイ子さんが、集まったお金の全額の目録を捧げられた時の、校長先生の平気な、すこし嬉しそうなお顔……。
それから川村書記さんの事務報告に続いて、校長先生が感謝の演説をなされました。そのお言葉の涙ぐましかったこと……その真情の籠もっていたこと……そのお姿の神々《こうごう》しかったこと……そうして、そうでありましただけ、それだけにその演説の意味が、どんな詩人でも思い付かないくらいに悪魔的でしたこと……。
「私は自分の子というものを一人も持ちません。ですから、いつも皆様を私のホントウの子供と思っております。……この五年の間にお名前から、お顔から、お心持までも一々記憶して、何の疵《きず》もない玉のように清浄に育って行かれる皆様のお姿を、心の底まで刻み付けているのであります。その皆様をこの浪風の荒い、不正不義に満ち満ちた世の中に送り出す、その最後のお別れの日の今日只今、私がどうして平気でおられましょう。どうして感慨なしにおれましょう。それが繊弱《かよわ》い、美しい、優しい皆様でありますだけ、それだけに、雄々しい吾児を戦場に見送る母親の気持よりもモットモット切ない思いで胸が一パイになるのであります。
……申すまでもなく人生は戦場であります。この社会は現在、あらゆる素晴らしい科学文明の力で、かくも美しく飾り立てられているのでありますが、しかしその内実はドンナものかと考えてみますと、ちょうど野生の動植物の世界……ジャングルとか原始林とか、阿弗利加《アフリカ》の暗黒地帯とか言うものの中と同様に、精神的にも物質的にも、お互い同士が『喰うか喰われるか』の恐ろしい生存競争場であります。その止むに止まれぬ生存競争から生み出される、あらゆる不正不義な意味の社会悪が到る処に『喰うか喰われるか』の意味で満ち満ちているのでありますからして、わけても心の優しい、うら若い皆様に取りましては、是非善悪に迷われるような深刻な、危険な、恐ろしい立場が、到る処に待ち受けている事を、今から覚悟していて頂かねばなりません。
……度々申しますように、今日までの人類文化の歴史は、男性のための文化の歴史であります。そうしてその男性の歴史というものは個人個人同士の腕力の闘争史から、団体同士の武力の競争時代を経過して参りまして、只今は金銭の闘争時代に入っております。すなわち弓矢鉄砲と名づくる武器が、金銭と名づくる武器に代っただけの時代であります。それでありますからして昔の武力闘争時代に於て、戦争のため、すなわち敵に打ち勝つためには、如何なる奸悪《かんあく》無道な所業といえども、止むを得ない事として許されておりましたのと同様に、現在の社会に於ても、金銭と、これに伴う名誉、地位のためには、法律に触れず、他人に知れない限り、如何なる悪辣《あくらつ》、非人道をも、どしどし行って差支えないと考えられているのであります。もっと極端に申しますと現在の世界は、国際関係に於ても、個人関係に於ても、平気で良心を無視し、人道を蹂躙《じゅうりん》し得るほどの、残忍、冷血な者でなければ、絶対に勝利者となる事の出来ない世の中と申しても大した間違いはないと考えられるのであります。
……すなわち現代の男性は、金銭の武器をもって戦うところの、暗黒闘争時代の闘士であります。無良心、無節操なる暴力とか策略とか言うものを平気で、巧みに行ない得る男性が勝者となり、支配者となりまして、そんな事の出来ない善人たちが、劣敗者、弱者となり下って行く証拠が、日常到る処に眼に余るほど満ち満ちているのであります。……ですから世界中が優しい、美しい、平和を愛好する婦人たちの心によって支配される時代は、まだまだ遙かの遠い処に在ると申さねばなりません。
……ですから皆様は、婦人に生まれられた事を喜ばなければなりません。御存じのお方もありましょうが、太閤記の浄瑠璃《じょうるり》で、主君を攻め殺して天下を取ろうとする明智光秀が、謀反《むほん》に反対する母親や妻女を『女子供の知る事に非ず』と叱り付けております。あの時代でも只今でも同じ事で、婦人はそのような、醜い、邪悪な、生存競争の全部を、世界始まって以来男性に任せ切りで、自分たちは皆申し合わせたように美と愛の生活を独占して参りました。その純真、純美な愛の心によって、料理、裁縫、育児の事にのみいそしんで、その家庭生活を美化し、平和化し、子孫を正しい、美しい心に教育する事ばかりに努力して来ました。そうして次第次第に腕力、武力の野蛮な闘争の世界を克服して、昔の人の想像も及ばぬ幸福安楽な、今日の文明世界を生み出して参りました。
……ですから皆様は決して恐るる事はありません。私は皆様に平和を尚《たっと》ぶ心を植え付け、忍従と美を愛する心掛をお教え致しました。皆様はこの心をもって、男性が作る残酷な、血も涙もない、厚顔無恥な悪徳の世界と戦わなければならぬ使命を、まだ歴史のない大昔以来、心の底から本能的に伝統してお出でになるのであります。ですから、その皆様の、美しい、優しい平和と忍従を尚ぶ本能のまにまに、この世界を一日も早く浄化し、良心化して、人類相互の心からなる平和の世界……婦人の美徳によってのみ支配される世界を一日も早く、育て上げられるように、毎日毎日全力を揚げて働いてお出でになりさえすれば、それでよろしいのであります。
……それは決して困難な事でも、わかり難い事でもありません。家庭に於ける婦人の美しい本能……清らかな愛情は、この男性と戦う唯一、無敵の武器であります。どんなに気の荒い、血も涙もない男性でも、この婦人の底知れぬ忍従と、涯てしもない愛情によって護られた家庭の中に在っては、底の底から安心して平和を楽しむ心になるのであります。そうして知らず知らずのうちに大きな感化を、その心の奥底に植付けられて行くのであります。家庭内に争議を起す婦人は災なる哉《かな》。……どうか皆様は一日も早く健全な家庭を持たれて、潔白な、正直なお子さんを大勢育て上げられて、来たるべき日本国を出来るだけ清らかに、朗らかに、正しく、強くされん事を、私は衷心から希望して止まないのであります。
……私はこの希望一つのために、生涯を棄《す》ててこの事業に携わっておる者であります。……繰り返して申します。皆様は私の心の子供であります。この子供たちをかような尊い戦いのために、今日只今から社会に送り出す私の心持……お別れに臨《のぞ》んで……」
校長先生のお話がここまで参りました時に、満場から湧き起った拍手のたまらない渦《うず》巻き……それから暫《しばら》くの間続いたススリ泣きと溜息……。
それから卒業式の時と同様に唄い出されました、涙ぐましい「螢の光」……。
ああ。何と言う感激にみちみちた光景でありましたろう。何という神々しい校長先生のお姿でありましたろう。
その謝恩会がすみますと直ぐに私は、帰り道の途中に在る殿宮視学官様のお宅をお訪ねしました。そうして学校一の美人で、学校一の優等生と呼ばれてお出でになる殿宮アイ子様にお眼にかかりまして、大切な秘密のお話がありますからと申しまして、二人きりで応接間に閉じこもりました。
殿宮アイ子さんは在学中、私の大切な大切な愛人《アミ》だったのです。お友達のうちで詩というもののホントウにおわかりになる方はアイ子さんお一人だったのです。誰も知りませんけれども、時々コッソリとお眼にかかった事が何度あるかわかりませんので、あの物置のアバラ家の二階で、虚無のお話をし合ったのも一度や二度ではなかったのです。けれども、こうしてお宅を訪問した事はこの時が初めてだったのです。
殿宮アイ子さんはホントにシッカリした方でした。私の話をお聞きになっても、驚きも泣きもなさらないで、美しい唇をシッカリと噛みしめ、張りのある綺麗なお眼を真赤にして輝かしながら、私の長い長いお話をスッカリ受け入れて下さいました。そうして私のお話がすみますと、やっと少しばかりの涙を眼頭にニジませながら、思い詰めたキッパリした口調で言われました。美しい美しい静かなお声でした。
「……ありがとうよ。歌枝さん。お蔭で今まで私にわからなかった事がスッカリわかりましたわ。私が初めて知りました真実《ほんと》のお父さん……森栖校長先生を反省さして下さる貴女《あなた》の御親切に私からお礼を言わして下さいましね。貴女のなさる復讐《ふくしゅう》は、どんな風になさるのか存じませんけど、貴女の仰言る通りに、誰にもわからないようにその人を反省させるだけの意味の復讐なら、大変にいい事だと思いますわ。その方法は貴女にお任せしますわ。どんな方法でも私は決してお恨み申しますまい。そうして、それでもお父様……校長先生が反省なさらない時には、貴女から下すったお手紙を、きっと貴女のお指図通りに出しますわ。ええ、中味を見ないで……誰にも……母にも秘密を明かしませんから、どうぞ御安心下さい。私は貴女をドコまでも信じて行きますわ。……私は貴女に思う存分に恨みを晴らして頂くよりほかに父の……父の罪の償《つぐな》い方法《かた》を知らないのですから……。
……ですけど……それはそれとして、大阪へお出でになったらキットおたよりを下さいましね……どうぞ……ね」
そう言ってアイ子さんはタッタ一しずく涙をポトリと落されました。そうしてその涙を拭おうともしないまま走り寄って来て、私の手をシッカリと握り締められました。千万無量の意味の籠《こ》もった握手……。
それで私の下準備《したごしらえ》は終りました。
私が大阪に行く事を承知しました時の両親の喜びようと、わざわざ訪ねてお出でになった校長先生のお賞《ほ》めになりようは、それはそれは大変なものでした。そうしてその時に私が持ち出しました無理なお願い……大阪へ行く事を誰にも知らせないで、タッタ一人で出立したい。大阪の新聞社の支局へも挨拶しないまま、今から直ぐに出発したいという我ままな願いも、そんなに八釜《やかま》しく仰言らずに承知して下さいました。
けれども私は大阪へ行きませんでした。
謝恩会のあったその日の夕方に、新しい洋装とハンドバッグ一つと言う身軽い扮装《いでたち》で、両親に別れを告げて、家を出るには出ましたが、その足で直ぐに殿宮視学のお宅をお訪ねして、イヨイヨ大阪へ行きますからと言って、無理にアイ子さんを誘い出しました私は、一緒に西洋亭へ上りまして、二人で思い切り御馳走を誂《あつら》えて、お別れの晩餐《ばんさん》を取りました。それから二人でモダン写真館へ行って記念写真を撮りますと、あそこの写真館のサロンで二人で抱き合って長い長い接吻を致しましたが、二人とも涙に濡れて、お互いの顔が見えないようになってしまいました。
それから私の計画をチットモ御存じのないアイ子さんが是非とも見送ると言って停車場へ見えましたので、仕方なしに大阪へ行くふりをして汽車に乗るには乗りましたが
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