、直ぐに途中の駅から自動車で引き返して、この町の外れのある淋しい宿屋へ泊り込みました。そうして近くの古着屋から買って来ました黒い背広に、黒の鳥打帽、黒眼鏡と言う黒ずくめの服装で、男のような歩き方をしながら、一所懸命に校長先生のアトを跟《つ》け始めました。手に提げた学生用の手提袋には長い丈夫な麻縄と、黒|繻子《じゅす》の覆面用の風呂敷と、旧式の手慣れたコダックと、最新式の小型発光器《フラッシュランプ》と、蝋マッチと、写真の紙を切るための安全|剃刀《かみそり》の刃を入れておりましたが、これは前の晩に宿屋の屋根で使い方を研究して置きました、練習ずみの品々で、校長先生に取っては、ピストルよりも、毒|瓦斯《ガス》よりも、何よりも恐ろしい私の復讐の武器なのでした。
そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗《ゆうやみ》の町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……サテは……と胸を躍らせながら一心にアトを跟《つ》けて行きますと、果して天神の森には二人の和服の紳士の方が待っておられました。……スラリとした影とズングリ低いのと……それが近付いてみますと、やはり私の想像通りに傴僂《せむし》の川村書記さんと、好男子殿宮視学さんに違いない事がわかりました時の私の喜びはどんなでしたろう。
森の外の国道には、室内照明《ルーム》を消した幌自動車が、三人の若い芸妓《げいしゃ》さんを乗せて、ヒッソリと待っておりました。それに気が付きました私は、手提袋を腰に結び付けて、黒い風呂敷で手早く覆面をしますと、三人が自動車に乗り込まれるとほとんど同時に夕暗に紛《まぎ》れながら、スペヤ・タイヤの処へ飛付いて、小さく跼《かが》まりながら揺られて行きました。そうしてその自動車の行先が、私の想像通りに温泉ホテルである事がわかりました時の、私の安心と満足……冒険心と好奇心……それはどんなにかドキドキワクワクしたものでしたろう。私の復讐は何もかも最初から、温泉ホテルを目標にして、研究して、計画しておったものですから……。そうして、それがもう第一日の一番最初から、ぐんぐん思い通りに、運んで行き始めたのですから……。
けれども私が一寸《ちょっと》した思い付きから、あんな悪戯《いたずら》をしました時に、自動車の中の方々が、どんなにかビックリなすった事でしょう。
あの自動車がシボレーのオープンでありました事は、ほんとに天の助けだったかも知れません。その上に私が、偶然に、安全剃刀の刃を用意しておりましたのは、これこそ一つの奇蹟だったかも知れません。ガタガタする車体の中で、メチャメチャに燥《はしゃ》いでお出でになった三人は、私が安全剃刀の刃で、後窓《アイホール》の周囲《まわり》をUの字型に切抜くのをチットモお気付きになりませんでした。
その穴から片手を突込みました時に、校長先生は、一番左の一番可愛らしい舞妓《まいこ》さんの背後から抱き付いてお出でになりましたが、その舞妓さんの花簪《はなかんざし》と、阿弥陀に被《かぶ》っておられた校長先生の山高帽を奪い取って、自動車から飛び降りて逃げだした時に、私の足の力がどんなにか役に立ちましたことか……若い運転手さんが「泥棒、泥棒」と叫びながら一所懸命で追い掛けて来るには来ましたが、日が暮れて間もない平坦な国道ですもの……。
右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口に咥《くわ》えた私は、そんなに息切れもしないうちに、グングンと追跡者を引き離してしまいました。そうして町へ引き返して、ビックリしておられる殿宮アイ子さんをソッと呼び出して、私の仕事の中で思いがけない拾いものをした事をお知らせして、心から喜び合う事が出来ました。
ですからあの山高帽子と花簪は、今でも殿宮アイ子さんのお手許に在るはずです。この手紙を御覧になりましたらば、直ぐにアイ子さんの処へ受け取りに行って御覧なさいませ。どのような劇的シインが展開するか存じませんけれども……。
けれども私のほんとうの目的の仕事はまだまだ残っておりました。それくらいの事で反省なさる校長先生ではないことを、よく存じておりますからね。
「愛子さん……校長先生がホントウに後悔をなすって、お母さんにもお詫びをなすったら、この帽子と花簪を上げて頂戴……それでももし校長先生が受け取りにお出でにならなかったら、この二つの品物は、お母様と御相談なすって、お好きなようにして頂戴……」
そう申し残しますと私は直ぐに別の箱自動車《セダン》を雇って一直線に温泉ホテルに向いました。
……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。
私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の後窓《アイホール》を切り抜いて、あんな悪戯《いたずら》をして行った曲者が、何を目的にした者かと言う事が、あの時のお三人におわかりになるはずはありません。況《ま》して最早《もう》、とっくの昔に大阪に着いているはずの私が、あんな事をしたとお気付になるはずはない。そうして折角三人も揃って思い立たれた今夜の計画を、これくらいの事にビックリしてお中止《やめ》になるはずもない。ただアラビヤン・ナイトのような不思議な災難に驚かれて、ワヤワヤとお騒ぎになっただけで、そのまま先を急いでお出でになったであろう事を、私は九分九厘まで信じておりました。
ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋の袂《たもと》で自動車を止めて貰いました。
それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かに洩《も》れて来る校長先生の笑い声を耳に致しました私は、ホット安堵の胸を撫でおろしました。それから直ぐに、音を立てないように板塀を乗り越して、非常|梯子《ばしご》伝いに三階の非常口まで来ますと、あそこから丈夫な銅《あかがね》の雨|樋《とい》伝いに、軒先からクルリと尻上りをして屋根の上に出ましたが、さすがの私……火星の女も、その尻上りをした時に、はるか眼の下の暗黒の底の、石燈籠に照された花崗岩《みかげいわ》の舗道をチラリと見下しました時には、思わず冷汗が流れました。
そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂に匐《は》い上りました私は、口に啣《くわ》えて来ました手提の中から取り出した細引のマン中を屋根の中心に在る避雷針の根元に結び付けて、その端を自分の胴中に巻き付けて手繰《たぐ》りながら、急な赤煉瓦の勾配を降りて行きました。そうして屋根の端の雨樋の処から顔だけ出して、直ぐ下の廻転窓越しに、部屋の中を覗き込んで見たのでした。
温泉ホテルの三階は、全体が一つの眺望用のサロンみたいになっているのでした。雨模様で蒸暑かったせいでしたろう。窓の上側が全部、開放して在りましたので、内部《なか》の様子が隅から隅まで手に取るように一目で見えました。
私は、私の想像以上だったあの時の、あの部屋の中の有様を書く勇気を持ちません。ただ必要なだけ書いて置きます。
大きな棕梠《しゅろ》竹や、芭蕉《ばしょう》や、カンナの植木鉢と、いろいろな贅沢《ぜいたく》な恰好の長椅子をあしらった、金ピカずくめの部屋の中では、体格の立派な殿宮視学さんと、ゾッとするような白光りする背中の瘤《こぶ》を露出《むきだ》した川村書記さんと、禿頭の熊みたような毛むくじゃらの校長先生が、自動車で連れてお出でになった三人の若い婦人のほかに、土地《ところ》の芸妓《げいこ》さんでしょう、年増《としま》の二人と、都合五人の浅ましい姿の婦人たちを相手に、有頂天の乱痴気騒ぎをやってお出でになりました。獣とも人間ともわからない姿と声で躍ったり、跳ねたり、転がりまわり、匐《は》いまわり、笑いまわり、泣きまわってお出でになりました。
私は暫くの間、茫然とそんな光景を見恍《みと》れておりました。
「現代の文明は男性のための文明」と仰言った校長先生の演説のお言葉を思い出しながら、こうした妖怪じみた人間と美人たちの乱舞を生まれて初めて眼の前に見て、気が遠くなるほど呆れ返っておりましたが、やがて吾に帰りました私は、屋根の端に身を逆様にしながら、落ち着いてコダックの焦点を合わせました。そうして、わざと蝋マッチを一本パチンと擦ったアトで、皆様がこちらをお向きになった瞬間を見澄まして、発光器《フラッシュ》を燃やしましたが、強い、青白い光線はズッと向うの広間の向う側までも達したように思いました。
私が発光器《フラッシュランプ》を眼の下の深い木立の中へ投げ棄てますと、長椅子の上で遊び戯《たわむ》れておりました婦人たちの中にはキャア――ッと叫んで着物を着ようとした人もおったようでした。
「何だったろう、今のは……」
「恐ろしく光ったじゃないか」
「パチパチと言ったようだぜ」
「星が飛んだんだろう」
「馬鹿な。今夜は曇っているじゃないか」
「イヤ。星でも雲を突き抜いて流れる事があります。光が烈しいですから、直ぐ鼻の先のように見える事があります。私は一度見ましたが……小さい時に……」
「今夜は何か知らん妙な事のある晩だな」
「ちょうど窓の直ぐ外のように見えたがのう」
そう言って校長先生が、ノソノソと窓の処へ近付いてお出でになるようでした。
その瞬間にスッカリ面白くなりました私は、またも一つの悪戯《いたずら》を思い付きました。
写真機と手提袋を深い雨|樋《どい》の中へ落し込んだ私は、手早く髪毛《かみのけ》を解いて、長く蓬々《ほうほう》と垂らしました。ワイシャツの胸を黒い風呂敷で隠しますと、思い切って身体《からだ》の半分以上を屋根の端から乗り出しました。長い髪毛を逆様に振り乱しながら、息苦しいくらい甲高い、悲し気な声で叫びました。
「森栖先生エ――エ――エエエ……」
部屋の中から流れ出る明るい電燈の光線で、窓の外の私の顔を発見された校長先生は、窓の枠《わく》に掴《つか》まったまま眼を真白く見開いて私をお睨みになりました。浅ましい丸裸体のまま、あんぐりと開いた口の中から、白い舌をダラリと垂らしておられました。その恰好がアンマリ可笑しかったので、私は思わず声高く笑い出しました。
「……ホホホ……ハハハハハハ……ヒヒヒヒヒヒ……」
部屋の中が、私の笑い声に連れて総立ちになりました。
「あれエ――ッ……」
「きゃあア――あッ……」
「……誰か来てエ――ッ……」
と口々に悲鳴をあげながら逃げ迷うて、他人の着物を引抱えながら馳け出して行く女《ひと》……そのまま入口の方へ転がり出る女《ひと》……気絶したまま椅子の上に伸びてしまう人……倒れる椅子……引っくり返る卓子《テーブル》……壊れるコップや皿小鉢……馳けまわる空瓶の音……。
……真夜中に三階の屋根の軒先から、逆様に髪毛を垂らして笑っている女の首を御覧になったら、誰でも人間とは思われないでしょう……。
それが間もなくシインと鎮《しず》まりますと、あとには校長先生と同じに、私と睨み合ったまま、棒立ちになっておられる殿宮視学さんと、川村書記さんが残りました。その世にも滑稽《こっけい》な姿のお三人の顔を見廻わしますと、私は今一度、思い切った高い声で、心の底から笑いました。
「ホホホホホ……オホホホホホホ……私が誰だか、おわかりになりまして……?……校
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