言う事だがね……」
と言うお話でした。
私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。
私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。
「……考えさして下さい」
と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。
それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。
「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない理由《わけ》でも在るのかい」
私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、剛《こ》わばった顔をして、白々と私を凝視しておりましたので、私はいよいよビックリしてしまいました。
それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。
「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」
両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。
「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」
私はハッと胸を衝《つ》かれましたが、すぐに気を落ち着けて、何気なく頭を左右に振りました。ため息を一つしながら……。
「いいえ。何も……」
「それじゃ……お前は再昨日《おとつい》の晩、何処へ行っていたのだえ」
継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。
私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと俛首《うなだ》れてしまいました。多分、私の顔は死人のように青|褪《ざ》めていたことでしょう。ただもう気がワクワクして胸がドキドキして、身を切るような涙がポタポタと寝間着の膝の上に滴るばかりでした。
……私の破滅は校長先生の破滅……校長先生の破滅は私の破滅……私の破滅……校長先生の破滅……何もかも破滅……現在タッタ今破滅しかけているのだ。……そうして、どんな事があっても破滅させてはならないのだ。白状してはいけないのだ。私と校長先生とは二人きりでこの秘密を固く固く抱き合って、底も涯てしもない無間地獄の底へ、何処までも何処までも真逆様に落ちて行かなければならないのだ。……と……そんなような事ばかりをグルグルグルと扇風機のように頭の中で考えまわしているうちに、私の全身をめぐっております血液が、みんな涙になって頭の中一パイにみちみちて、あとからあとから眼の中に溜って、ポタポタと流れ出して行くように思いました。それにつれて私の心臓と肺臓が、涯てしもない虚空の中で互い違いに波打って狂いまわる恐ろしさに、声も立てられないような気持になって行きました。
その私の耳元に、父の鋭い、冴え返った声が聞こえました。
「隠してもわかっているぞ。一昨日お医者様が取って行かれたお前の血清を、大学で検査された結果、お前がもう処女でないことがわかってしまったんだぞ」
継母が私の直ぐ横で、長い長いため息をしました。赤の他人よりもモットモットつめたい、もっともっと赤の他人らしい溜息を……。
「一昨日、お前を診《み》て下さった……昨夜《ゆうべ》も診に来て下すった先生は、その方の研究で墺太利《オーストリー》まで行って来られた有名な医学博士だったのだぞ。どんな言い訳をしても通らない、科学上の立派な証拠を……俺は……俺は……眼の前に突き付けられたのだぞ……」
……何と言う恐ろしい科学の力……。
私がもう清浄な身体《からだ》でないこと……自分でもそうは思われないくらいの儚《はか》ない一刹那の出来事……それがタッタ一滴の血液の検査でわかるとは……。
……何と言う残酷な科学の審判……。
私はモウ何の他愛もなく絨氈《じゅうたん》の上に……両親の足元に泣き崩《くず》れてしまいました。
絶体絶命になった私……。
父は私に是が非でも相手を打ち明けよと迫りました。決して無理な事はしない。キット添わせて遣る。お前の事をソンナにまで思って下さる人がおられる事を俺達が気付かなかったのが悪かったのだ。どんな相手でもいいから打ち明けよ。親の慈悲というものを知らぬか……と両親とも涙を流して迫りましたが、私は死ぬほど泣かされながら、とうとう頑張り通してしまいました。校長先生のお名前を打ち明けるような空恐ろしい事が、どうしても私には出来なかったのです。
私は生まれて初めて親の命令に背《そむ》いたのです。親様の慈悲を裏切ったのです。校長先生の御名誉のために……。私はどうしてあの時に狂人にならなかったのでしょう。
それから私はその日の正午頃になってヘトヘトに泣き疲れたまま、寝床に入りました。アダリンを沢山《たくさん》に服《の》んで、青|褪《ざ》めた二人の妹に見守られながらグッスリと眠ってしまいました。このままで死んでしまえばいいと思いながら……。
その翌る日の三月二十二日は、私たち二十七回卒業生の、校長先生に対する謝恩会が催される日でした。
ああ謝恩会……私に取って何と言うミジメな、悲しい、恐ろしい謝恩会でしたろう。
私はまだ睡眠剤から醒め切れないような夢心地で、死ぬにしても生きるにしても、どちらにしても考えようのないような考えを、頭の中一パイに渦巻かせながら、今一度、母校の正門を潜りました。
もう一度校長先生のお顔を見たい。どんな顔をなすって私を御覧になるか……と……それ一つを天にも地にもタッタ一つの心頼みにして……。
いつもの通り古ぼけたフロックコートを召して、玄関に立ってお出でになった校長先生は、やはりいつもの通りに、私を御覧になるとニッコリされました。それは平常の通りの気高い、慈悲深い校長先生のお顔でした。
「……やあ……甘川さんお早よう。貴女にちょっとお話がありますがね。まだ時間がありますから……」
と落ち着いた声で仰言って、私の手を引かんばかりにして正面の階段を昇って、二階の廊下のズッと突き当りの空いた教室の片隅に、私をお連れ込みになりました。そうして、やはりこの上もない御親切な、気高い、慈悲深い顔をなすって、
「どうです。お父さんからのお話を聞かれましたか。大阪へ行く決心が付きましたか」
と仰言って、もう一度ニッコリされました。
その校長先生のお顔は、二、三日前の御記憶なんかミジンも残っていないお顔付きでした。柔和なお顔の皮膚がつやつやしく輝いて、神様のような微笑がお口のまわりをさまようておりました。……あの晩の事は夢じゃなかったのか知らん……あたしは何かしらとんでもない夢を見て、こんなに思い詰めているのじゃなかったか知らん……とさえ思ったくらいでした。
それでも私は、考えようのないような考えで頭の中を一パイに混乱させながらも、キッパリと大阪行きをお断りしたように思います。その時には別段に嬉しくも、悲しくも、腹立たしくも何ともなかったようですが、多分、私の脳髄がまだシビレていたせいでしたろう。
しかし校長先生は、お諦めになりませんでした。
「これは貴女のおためですから……この就職口さえ御承諾になれば、貴女にはキットいい御縁談が申し込んで来る事を、お約束出来るのですから……運動好きの若い紳士が、その新聞社に待っておられるのですから……」
とか何とか仰言って、いよいよ親切を籠《こ》めて、繰り返し繰り返しお説教をなさいましたが、その言葉のうちにうなだれて聞いておりました私が、そっと上目づかいをして見ました時の、校長先生のお眼の光の冷たかったこと……人間を喰べるお魚のような青白い、意地の悪い、冷酷な光が冴え返っておりましたこと……。
その何とも言えない無情な、冷やかなお眼の色を見ました一刹那に、私はモウ少しで……悪魔……と叫んで掴みかかりたいような気持になりましたので、こっそりと一つ溜息をして、頭を下げてしまいました。何もかもメチャメチャにしてしまいたい私の気持が、私自身に恐ろしゅう御座いましたので……。
その時に校長先生のお言葉が……お話の初めの時よりもずっと熱烈な……祈るようなお声が、私の耳元に響きました。
「……ね……甘川さん。考えて下さいよ。貴方は万が一にも大阪にお出でにならぬとすれば、貴方の御両親やお妹さん達に、どれだけの精神的な御迷惑をおかけになるか御存じですか。貴女を今のままにしておいては将来、家庭をお作りになって、満足な御生涯をお送りになる可能性が些ない事になると仰言って、御両親が夜《よ》の目も寝ずに心配してお出でになるのですよ。これは私が心から申し上ることです、貴女は一体、将来をどうなさるおつもりですか。これほどに貴女のおためを思っておる私の心が、おわかりにならないのですか」
その校長先生らしい……この上もない人格者らしい威厳と温情の籠もっているらしいお言葉つきの憎らしゅう御座いましたこと。私は今一度カッとなって、何もかもブチマケてしまいたい衝動に駈《か》られましたが、しかしその時には最早《もう》、私の決心が据わっておりましたので、身体中をブルブルとわななかせながら、我慢してしまいました。
「校長先生のお心はよくわかっております。けれどもモウ二、三日考えさして下さい。決して先生のお心にそむくような事は致しませんから……」
これは私が生まれて初めて吐いた嘘言《うそ》でした。
この時に私が決心しておりました事は、先生のお心に背くどころでなかったのでした。もしこの時に私が致しておりました決心の内容が、ホンの一部分でも校長先生にお察しが付きましたならば、校長先生はその場で気絶なすったかも知れません。
私は先生の平気な、石のようにガッチリしたお顔色を見ておりますうちに、トテモ人間並の手段では校長先生を反省させる事が出来ないと深く深く思い込みました。私が火星から来た女なら校長先生は土星から降ってお出でになった超特級の悪魔に違いないと気が付きましたから、ドンナ事があっても間違いない……そうして先生をドン底まで震え上らせる手段を考えなければならぬ……殺して上げるくらいでは追い付かない……この地球表面上が、校長先生に取っては生きても死んでもおられない、フライ鍋《なべ》よりも恐ろしい処にしてしまわなければならないと固く固く決心してしまったのでした。
私は微笑を含みながら静かに立ち上って教室を出ました。そうすると入口で様子を聞いておられたらしい虎間デブ子先生にバッタリ出会いましたが、私はモウすっかり落ち着いておりましたから、何も知らん顔で丁寧にお辞儀をして階段を降りて行きました。あとで校長先生と虎間先生が何か御相談をしてお出でになるようでしたが、そんな事はもう問題ではありませんでした。
階下の待合室になっている裁縫室に入って行きました私は、卒業生仲間のお話の中に交って一緒に笑ったり、お菓子を頂いたり何かして一時間余りを過しましたが、私があんなに打ち解けて皆様と一緒に愉快そうに燥《はしゃ》いだ事は生まれて初めてだったでしょう。その間じゅう私は、自分のノッポも、醜さも、火星の女である事も何もかも忘れて、何となく皆さんとお名残が惜しい気持が致しますままに、出来るだけ大勢のお友達と顔を見合って、笑い合って、手を取り合ってなつかしみ合ったのですが、あの一時間こそは私の一生涯のうちでも、やっと人間らしい気持のした、一番楽しい一時間だったのでしょう。
それから間もなく始まった謝恩会の模様を、私はすこし詳しく書かなければなりません。
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