しても逃れる事の出来ない運命に囚《とら》われてしまったような物悲しい気持になってしまったのでした。
……ああ……馬鹿な私……不覚な私。校長先生が評判の通りの聖人でない。ほかの女の方とここで会う約束をしておられた……その女の方と私とを間違えておられる事を、あの時にどうした訳かミジンも察し得ずにいたのでした。多分、私の心の奥底に残っておりました尊敬の心が、校長先生を疑う事を許さなかったのでしょう。
……ああ……浅墓《あさはか》な私……私は校長先生のお金に関する醜いお仕事の数々を知り過ぎるくらい、存じておりました。けれども女性に対しては、どこまでも潔白なお方と信じ切っていたのでした。よしんば馬鹿騒ぎをなさる事はあっても、校長先生お一人は、男性としての貞操を何処までも、お亡くなりになった奥様に対して守ってお出でになる感心なお方とこの時までも思い込んでいたのでした。その聖人同様の校長先生にコンナ秘密の悩みがあるとは何と言うお気の毒な事であろう。私にソレを打ち明けて下さるとは何と言う勿体《もったい》ない事であろう……としみじみ考えておりますうちに私はもう、何もかもわからなくなるほど悲しくなって、泣けて泣けて仕様がなくなりました。ただメチャメチャに悲しい思い出を頭の中に渦巻かせながら、校長先生のお胸にグッタリと取り縋っておりました。
そのうちに時間がグングン流れて行きました。
……ああ……けれども、それは何と言う悲しい、浅ましい一刹那の夢で御座いましたろう。
間もなく入って来られました虎間トラ子先生……私たちがデブさんと言っておりましたあの古参の英語の先生に、私がドンナに非道《ひど》い目に会わされました事か。そうして真暗闇の中で、どんなに一所懸命の力を出して虎間先生を突飛ばして廃屋の外へ逃げ出しましたことか。
そうして一旦《いったん》コンクリート塀の外へ飛び出してから、直ぐにまた、弓の道場の間に忍び込んで、あの廃屋の横の切戸の隙間に耳を近付けて、ドンナに真剣に、お二人の口争いに耳を傾けておりましたことか。
その時に校長先生が、どんなに狼狽《ろうばい》してお出でになったことか。お顔色こそわかりませんでしたが多分、真青になっておられたことでしょう。暗黒に狃《な》れて来た眼でソッと覗いてみますと、運動会用の大きな張子の達磨《だるま》様のお尻の間に平突張《へいつくば》って、威丈高になっていられる虎間先生の前に両手を突いて、半泣きの声を出しながら、どんなにペコペコと謝罪《あやま》られましたことか。
「いいえ、間違いとは言わせません。貴方は妾ばかりじゃない。コンナ風にして何人も何人も女を欺《だま》してお出でになるのです。私は何もかも知っているのですよ。成績の悪い生徒の点数を良くして遣《や》ると仰言って、その生徒やお母さん達に貴方が何を要求してお出でになるかも、よく存じておりますのですよ。貴方の商売道具は、貴方のポケットの中に在る全校の生徒の試験問題ですからね。貴方の下宿のお二階に尋ねて来られた生徒さんとお母さんのお名前は皆、私のノートに書き止めて御座いますよ。貴方の下宿のお神さんが、こんな事に就いて口の固い理由《わけ》も、妾はズット以前から詳しく存じているのですよ。ホホホ……。
そればっかりじゃ御座いませんよ。今の五年の優等生の殿宮アイ子さんは、貴方の実のお子さんではありませんか。イイエ。お隠しになっても駄目です。毎日毎日お顔を見ているうちにはハッキリとわかって参ります。メンデルの法則って恐ろしいものじゃありませんか。女の児は父親に男の児は母親に似るってほんとうですわね。よく御覧なさい。貴方に生写《いきうつ》しじゃありませんか。貴方は、貴方が妊娠させて卒業おさせになったトメ子さん……舞坂トメ子さんの気の弱いのに付け込んで、欺したり賺《すか》したりして、あの色男の好色漢の殿宮小公爵の処へ媒酌なすったのでしょう。そうしてその殿宮の甘ちゃんに遊び事で取り入って、どこどこまでも温柔《おとな》しい、日本婦人式に謹しみの深い天使のような殿宮夫人を、二重にも三重にも苦しめ苛責《さい》なむのを、一つの秘密の楽しみにしてお出でになったのでしょう……イイエ。貴方はソンナ性格の方なのです。御自分の無良心な、二重人格式の性格の人知れぬ強さを、どこどこまでも深刻に楽しみ、誇って行こうとしておられる、変態趣味的に極端な個人主義の凝固《こりかた》まりなのです。
こんな事を知っているのは今のところ妾と舞坂トメ子さん……今の殿宮夫人と二人だけで、御本人のアイ子さんもまだ、お気づきにならないようです。ただ一途に貴方の事を立派な人格の校長さんとばかり思い込んで尊敬してお出でになるようです。そうした有難い舞坂トメ子さんの心遣いが貴方におわかりになりますか。私と舞坂さんとは、二人でこの学校の寄宿舎にいた時分から、大切な大切な親友だったのですからね。その大切な大切な舞坂さんをお泣かせになったのが貴方ですから、どうして知らないでおられましょう。……私はソンナ処から貴方の御生活に興味を持って、いろいろと苦心しながら、貴方に近付く機会を狙っていたのですからね。ね、おわかりになったでしょう。女の一心というものは怖いものですよ。オホホ……。
いいえいいえ。妾は黙っておる訳には参りません。私は在来《ありきた》りの手も力もない日本式の女性とは違うんですからね。意地になったらドコドコまでも意地になって行ける自信を持った女ですからね。自慢では御座いませんが、女の腕一つで男の子を二人育てて来た女ですからね。一通り世間の事は知り抜いている女ですよ……貴方が二十年前に、あの天使のように美しい舞坂さんを抱き締めて仰言った愛の言葉を発表する方法を存じておりますよ。どうぞどうぞこの淋しい独身者《ひとりもの》を憐れんで下さい……とね。ホホホ……」
それから先の問答は、気が顛倒《てんとう》しておりましたせいか一々記憶に止まっておりません。けれども、かいつまんで申しますと、校長先生の一所懸命の御弁解で、虎間先生はやっと間違いの原因を納得されました。そうして虎間先生を奏任待遇にすることと昇給させる事を条件として、校長先生の過ちを許して上げると言う事で、お話が折合った模様で御座いました。
それに引き続いて今度は、私の口を塞《ふさ》ぐ方法に就いてヒソヒソと話し合っておられたようでした。クスクス笑いの声と一緒に「大阪」とか「廃物利用」とか言ったような言葉がチラチラと洩れて来たようでしたが、大部分はほとんど聞こえませんでした。他人に言えと仰言ってもコンナ秘密をお喋舌《しゃべ》りするような私ではないのにと思い思い、胸を一パイにして聞いておりました。そうして最後にお二人はコンナ問答をされました。
「よう御座いますか森栖さん。万一、貴方が奏任待遇と昇給のお約束をお忘れになると、貴方が大変な御損をなさる事になるのですよ。妾はもうこの春に二人の子供が大学と専門学校を一緒に卒業するばっかりになっておりますし、一生喰べるくらいの貯えは今でも持っているのですから、世間からドンナ事を言われても怖い事はありません。ただこの上の欲には二人の息子の結婚費用と恩給を稼がせて頂けばいいのですから……どんな事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」
「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」
「それにしてもあの娘《こ》は、どうしてここに入って来たのでしょう。気色《きしょく》の悪い……」
これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で髪毛《かみのけ》と顔を念入りに直して、コッソリと自宅へ帰りました。
その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。
あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後で嘔《は》きたくなる時のような疲れを感じて、窓の外の太陽の光が妙に黄《きな》臭くて、起き上ろうとすると眼がクラクラして堪りませんので、生まれて初めて終日、床に就いておりましたが、あれは多分、烈しい神経の打撃からだったのでしょう。両親には風邪気味と申しましたので、夕方になって、近所に住んでおられる大学の助教授さんとか言う、若いお医者さんを呼んでくれましたが、別に何処と言って悪い処は御座いませんし、熱も何もなくて、脈も変っていなかったので御座いましょう。お医者様はしきりに不思議がって、首を傾《かし》げておられました。そうして私の左手からすこしばかり血を取ってお帰りになりましたが、あの血の一滴が、校長先生と私とをコンナ破目に陥れる重要な血だった事を、あの時の混乱していた私が、どうして気付き得ましょう。
その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼を醒《さ》ます事が出来ました。それは前の晩に若いお医者様から頂いた睡眠薬のお蔭だったのでしょう。私は寝間着のままお庭に出て、ユーカリの樹の梢に輝く青い青い朝の空を、ゆっくりと見上げる事が出来ました。
けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。
校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。
それが道ならぬ、忌《いま》わしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。それよりも、そんな道ならぬ忌わしい事をなさらなければならぬ校長先生の弱い、卑怯なお心が、その時の私にはこの上もなく御痛わしいものに思えて仕様がなくなっていたのでした。そうしてそのお痛わしい、淋しい校長先生を、仮令《たとい》どのような忌わしい方法ででもお救い申し上げて、正しい、明るい道にお帰りになるようにお諌《いさ》め申し上げるのが、私のような女に授けられた道ではないのでしょうか。それが私の持って生まれた運命なのではないでしょうか……とさえ思うようになっておりました。私には、
「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」
と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。
私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。
……底の知れないほど愚かな私……。
「大阪に行かんか」
と父から相談をかけられたのはその朝食前《あさごはんまえ》の、応接間での出来事でした。いつもですと私の事に就いては、ずいぶん冷淡でした私の継母も、この相談には深い興味を持っておりましたらしく、眼を光らして私の傍の椅子に参りました。
倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした口調《くちょう》で申しました。
「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」
「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」
「写真も嫌いじゃなかったろう」
「ええ大好きですわ」
父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。
「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所(営林所)に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにして遣《や》ると言っているそうだから、コンナ良い口はまたとないと思う。俸給は百円でボーナスは三月分だそうだが、御承知ならば私が大阪へ電話をかけるから、直ぐにも出発出来るだろうって
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