先生も私を初めて見られた時に同じような……それでも気の毒そうな笑い顔をされました。そうして私の名前を直ぐに記憶《おぼ》えられました。それから後、ちょっと来られた視学官の方も、すぐに私の名前を記憶して行かれたようですが、それは私の成績が作文と、習字と、図画と、体操を除いては、級の中で一番|末席《びり》だったせいばかりではなかったように思います。
私の名前は、すぐに全校の生徒に知れ渡りました。
「ノッポの甘川歌枝ん坊――オ……
梯子《はしご》をかけてエ――髪結うてエ」
と上級の男生徒が遠くから笑ったりしました。私は気の弱い児《こ》でしたから最初のうちは泣いて学校に行かないと申しましたが、そのうちにダンダン慣れて来て、どんなにヒドイ事を言われても淋しく笑って振り返る事が出来るようになりました。
私が一番モテたのは運動会の時でした。
私は二年生ぐらいの時から、六年の男子の中の一番早い生徒でも負かすくらい走れましたので「後世《こうせい》畏《おそ》る可《べ》し」という標題と一緒に、私の写真が新聞に出たこともありますが、その真夏の太陽の下で撮られた私のシカメ顔がまた、あんまり可笑《おか》しいと言って、私の両親までが腹を抱《かか》えて笑いましたので、私は二、三日、鏡ばかり見てはコッソリ泣き泣き致しましたが、あの時の情なかった私の思い出を話しましても、どなたが同情して下さいましたでしょう。もう一度腹を抱えてお笑いになるばかりだったでしょう。
私はまだ物心付かないうちから、人に笑われるために生まれて来た、醜い、ノッポの私自身を知りつくさなければならなかったのでした。
私が尋常六年頃から新体詩や小説を読み耽《ふけ》るようになったのは、そんな悲しさや淋しさが積り積ったせいではなかったかと思います。つまり私は皆様のお蔭で、人並はずれて早くから淋しい、一人ポッチの文学少女になってしまったのでしょう。
県立女学校に入ってからは、そんなに露骨な侮辱を受けませんでした。けれどもそこにはモットモット深刻な恥辱と嫌悪が私を待っておりました。
同級のうちでも私と正反対に一番美しい、一番よく出来る、或るタッタ一人を除いたほかの人々は、先生も同級の人達もみんな私に優しい言葉一つかけて下さいませんでした。みんな妙に私から遠くに離れて、奇妙な、冷たい笑い顔をして、私を見ておられるように感じました。御自分たちの御|綺倆《きりょう》と、学校の成績ばかりを一所懸命に争ってお出でになる方には、私が何となく劣等な、片輪者のように思われたのでしょう。私とお話なさるのを一種の恥辱か何ぞのように考えておられるようでしたが、それでも対抗のテニス、バレーボール、ランニングなぞが近付いて来ますと、先生も級友も、上級の生徒さんまでもが皆、私の周囲《まわり》に寄ってたかってチヤホヤされるのでした。私を神様か何ぞのように大切にかけて、生卵や果物なぞを特別に沢山《たくさん》下すって御機嫌を取りながら、否応なしに競技に引っぱり出されるのでした。私がノッポの、醜い姿を恥かしがっている気持なんかチットも察せずに……貴女は全校の名誉です……とか何とか繰り返し繰り返し言われるのでした。
けれどもその競技がすんだあくる日になりますと、最早、誰一人私を見向いて下さらないのでした。私という生徒がいたことすらも忘れておられるかのように遠|退《の》いてしまわれるのでした。
私は私が他校の選手と闘ってグングン相手を圧倒したり、引き離したりして行きます時に、手をたたいて狂喜される先生や生徒さん達の声からまでも、たまらない程の侮辱を感ずるようになって来ました。私は便所の中で下級生の人達がコンナ会話をしているのを聞きました。
「スゴイわねえ火星さん」
「まあ……誰のこと……火星さんて……」
「あら……御存じないの。甘川歌枝さんの事よ。あれは火星から来た女だ。だから世界中のドンナ選手が来たって勝てるはずはないんだって、校長先生が仰言ったのよ。だから皆、この間っから火星さん火星さん言ってんのよ」
「まあヒドイ校長先生……でも巧い綽名《あだな》だわねえ。甘川さんのあのグロテスクな感じがよく出てるわ」
それでも気の弱い私は又も、欺《だま》されたり持ち上げられたりして、年に何度かの競技に引張り出されるのでした。心のうちにある冷たい空虚を感じながら……。
学校の運動場のズット向うの、高い防火壁に囲まれた片隅に、物置小舎になっている廃屋《あばらや》があります。モトは学校の作法教室だったそうですが、今では壁も瓦も落ちて、ペンペン草が一パイに生えて、柱も階段も白蟻《しろあり》に喰われて、畳が落し穴みたいにブクブクになっております。
私は課業の休みの時間になりますと、よく便所の背面《うしろ》から弓の道場の板囲いの蔭に隠れて、あの廃屋の二階に上りました。あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、上半分骨ばかりになった雨戸越しに、防火壁の上の青い青い空をジイッと眺めるのを一つの楽しみのようにしておりました。そうして私の心の奥底に横たわっている大きな大きな冷たい冷たい空虚と、その青空の向うに在る、限りも涯《はて》しもない空虚とを見比べて、いろいろな事を考えるのが習慣のようになっておりました。それも最初は、自分の片輪じみた大きな姿を運動場に暴露《さら》したくない気持から、そうしたのでしたが、後には、それが誰にも話すことの出来ない私の秘密の楽しみになってしまいました。
私の心の底の底の空虚と、青空の向うの向うの空虚とは、全くおんなじ物だと言う事を次第次第に強く感じて来ました。そうして死ぬるなんて言う事は、何でもない事のように思われて来るのでした。
宇宙を流るる大きな虚無……時間と空間のほかには何もない生命の流れを私はシミジミと胸に感ずるような女になって来ました。私の生まれ故郷は、あの大空の向うに在る、音も香もない虚無世界に違いない事を、私はハッキリと覚《さと》って来ました。
大勢の人々は、その時間と空間の大きな大きな虚無の中で飛んだり、跳ねたり、泣いたり笑ったりしておられるのです。同窓の少女たちは、めいめいに好き勝手な雑誌や、書物や、活動のビラみたようなものを持ちまわって、美しい化粧法や、編物や、又はいろいろなローマンチックな夢なんぞに憧憬《あこが》れておられます。甘い物に集まる蟻のように、または、花を探しまわる蝶のように幸福に……楽しそうに……。
私にはソンナものがスッカリ無意味に見えて来ました。私の心のうちの虚無の流れと、宇宙の虚無の流れが、次第次第にシックリとして来ました。そうして私は放課後、日の暮れるまでも、あの廃屋《あばらや》のボロボロの籐椅子の上に身体を伸ばして、何となくニジミ出て来る淋しい淋しい涙で私自身を慰めるのが、何よりの楽しみになって来ました。
けれども、そうした私の秘密の楽しみは間もなく大変な事で妨げられるようになりました。
あの半分腐れかかって、倒れかかって、いろいろなガラクタと、白蟻と、ホコリで一パイになっている廃屋は、ちょうどあの海岸通りの四角にスックリと立っている、赤煉瓦《あかれんが》の天主教会が校長先生のいろいろな美徳のホームでありましたように、ずっと以前から校長先生のいろいろな悪徳の巣になっているのでした。校長先生が模範教育家としての体面をあらゆる方面に保たれながら、その裏面に、いろいろなお金や女性たちに対して、想像も及ばない悪知恵を働かしてお出でになるためには、あの廃屋が是非とも必要なのでした。……ですから校長先生は、どうしてもあの廃屋を取り毀《こわ》すことをお好みにならなかったのでしょう。「藁《わら》屋根は防火上危険だから」と言って、警察から八釜《やかま》しく言って来ても、物置の建築費がないからと言って、県の当局の方を長いことお困らせになったのでしょう。
そんな因縁の深い、悪徳の巣の中とは夢にも知らないで、毎日毎日修養に来ておりました私の愚かさ……その私のグラグラの籐椅子の下から間もなく、どんな悪魔の羽ばたきが聞こえて来ましたことか。そうしてその悪魔の羽ばたきは私を、逃げようにも逃げられないこの世の地獄の中へ、どんなに無慈悲にタタキ落して行きましたことか……。こんなに黒焦になってでも清算しなければ清算し切れないほどの責め苦の中へ、私を追い込んで行きました事か……。
その羽ばたきの主は、真黒い毛だらけの熊みたような校長先生と、眼も口もない真白な頭を今一つ背中に取付けておられる川村書記さん……それから今一人、後から出てお出でになる虎間トラ子先生……ヨークシャ豚のように醜いデブちゃん……私たちの英語の先生……この三人があの廃屋に人知れず巣喰っていた悪魔なのでした。
あの廃屋の二階を、私が大切な瞑想《めいそう》の道場としている事を夢にも御存じない校長先生と、傴僂《せむし》の老人の川村書記さんとは、いつも学期末の近付いた放課後になると、職員便所の横のカンナの葉蔭から、通行禁止の弓道場の板囲いの蔭伝いに仲よく連立って、コッソリと入って来られるのでした。そうして私の寝ている籐椅子の直ぐ真下の、八畳敷のゴミクタの中に坐って、いろいろな事を御相談なさるのでした。あんまり度々校内に居残って書記さんと密談なんかなさると、居残りや宿直の先生たちに妙な意味で見咎《みとが》められるかも知れないし、学校の外でも世間の人目がうるさいと言ったようなデリケートな教育家の立場をよく御存じの校長先生に取って、あの廃屋は何と言う便利この上もない密談の場所でしたろう。
二階と違って階下は、破れたなりに硝子戸と雨戸が二重に閉まっているのですから、すこしくらい大きな声でも滅多に外へ洩れませんが、その代りに、大抵のヒソヒソ話でも、二階で息を殺している私の耳へ筒抜けに聞こえて来るのでした。そうしてそのお話というのは大抵、校友会費に関係した事ばかりで、お二人でその誤魔化《ごまか》し方を熱心に研究なさるのでした。
私は学校のグランド・ピアノが三千五百円と帳面に付いているのに、ほんとうは中古の五百円である事を聞きました。卒業生の寄付で出来た正門の横の、作法室の建物や備付品が、表向きは一万二千円となっているのに、内実は七千何百円とかですんでいる入り割りもわかりました。それから校長先生が、校友会費を流用して、川村さんの弟さんの名前でゲンブツという相場をなすって、お金を儲けて、傴僂の川村さんと山分けにしていられるようなお話も聞きました。
それからそのゲンブツのお金にお困りになった後始末のために、校長先生はかねてから準備しておられた、世にも奇妙な金儲の方法を川村さんにお打ち明けになるのをチャント聞いてしまいました。
もちろん、それは校長先生が川村さんから突込まれて白状なすった事ですが、校長先生はかねてから、校長先生の人格をこの上もなく崇拝しておられる熱烈な基督教信者で、私たち五年生の英語を教えておられた虎間トラ子先生に言いふくめて、校長先生の銅像を建ててはどうかと提議おさせになりました。そうして全職員先生の御賛成の下《もと》に全国に散らばっている卒業生たちや、在校生の家庭から寄付をお集めになりましたところが、それが大変な反響を呼びまして、既に五千円余りのお金が川村書記さんの手許に集まっているのでした。
ですから有志の人達は、申すまでもなく今一息奮発して校長先生の銅像を立像にしたいという御希望でしたが、校長先生は、何故かわかりませんけれども立像を非常にお嫌いになりまして、「私は胸像で沢山《たくさん》である。私は元来銅像を立てられるような人物でない。立像などとは以ての外である」と大変な剣幕で、固く固く主張されましたので、仲に挾まった川村書記さんは大層お困りになっているのでした。
けれども校長先生がその立像をお嫌いになるホントウの理由を聞いてみますと又、世にも馬鹿らしい内幕なのでした。
校長先生の胸像はモウ二、三年前にチャンと出来上って校長先生のお宿の押入の片隅に、白い布片《きれ》に包まれたまま、ホ
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