。この重大なる失態に就いて、警察当局は何故《なにゆえ》か口を緘《かん》して一言も洩らさず、且、捜索の手配をした模様もないのは返す返すも奇怪千万の事と言うべきであるが、人も知る如く、同女の父、殿宮愛四郎氏は本県の視学官にして、現中央政界の大御所とも言うべき大勲位、公爵、殿宮|忠純《ただすみ》老元帥の嫡孫に当っているが、意外の悲劇に直面して悲歎に暮れつつも、該遺書内容の重大性に鑑《かんが》み、家門の名誉のため、引責辞職の決心せる旨、往訪の記者に語った。
[#ここから1字下げ]
「何とも申訳ありません。しかし娘が殺人放火なぞ言う大それた罪を犯し得ようとは、どうしても思われません。火星の女こと甘川歌枝と、娘のアイ子が県立高女在校中、無二の親友であったと言うようなお話も、只今初めて承《うけたま》わった位の事です。むろん二人の間に恋の遺恨なぞ言うような忌《い》まわしい事実があったかどうか、思い当る節《ふし》もありませんので唯、驚いているばかりです。その筋の注意もある事ですし、娘の将来の幸福のためにもかような事はなるべく世間に発表したくありませんから、どうぞここまでのお話のお積りで御聴取を願います。……何故《なにゆえ》に母だけを同伴して家出しましたか、そのような原因も目下のところ不明です。今日まで何等の秘密も風波もなく暮して来ました妻子に、突然に、思いがけなく棄てられた私は、ただ途方に暮れるばかりです。妻のトメも娘のアイ子も相当の貯えを持っている筈ですから、当分の生活には困らないでしょう。何処へ参りましたか心当りは全く御座いません。むろん私は引責致したい考えでおりますが、しかし、これとても正式に公表される迄は、やはりこの談話と一緒に御内聞に願います。云々」
 尚令嬢アイ子の遺書の内容は左の通りである。

 お父様。永々お世話様になりました。お母様とアイ子は、お父様にこの上の御迷惑をおかけ申したく御座いませんために、そうしてこの上にお母様を悲しませて、御病気を重く致したく御座いませんために、今日限りお暇《いとま》を致します。つつしんで今日迄の御恩を御礼申します。
 母校の出来事の全部は、わたくしの到らなかった責任で御座います。焼死された方は甘川歌枝さんで、自殺に相違御座いません事を私が保証致します。わたくしが今すこし早く甘川歌枝さんの自殺の決心に気付いておりましたならば、今度のような事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの花簪《はなかんざし》を十字架にかけました者が、わたくしに相違御座いません事は、その理由と一緒に、警官の方に白状致して置きました。なお警官の方は、お父様の事について思いがけない事をいろいろとお尋ねになりましたが、何も存じませんから、お答えせずに置きました。警官の方は自殺されました甘川歌枝さんの投書によって、お父様の裏面の御生活を詳しく御存じの様子ですから、御参考のために申し添えて置きます。
 しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお癒《なお》りになるまで安静に御介抱申し上げたいばっかりに家出致したので御座いますから、この上ともにわたくし共の行方を決して御探し下さいませんように……。なお、わたくしが、かような奇怪な行動をとりました理由も、申すまでもなく決して御探《おさぐ》りになりませんように、幾重にもお願い致します。その方がお父様にも私にも幸福と思いますから……。
 何卒《どうぞ》お身体《からだ》をお大切に……。
[#地から2字上げ]アイ子
 父上様
[#ここで字下げ終わり]
 因《ちなみ》に右、殿宮アイ子は県立高女在学中、同校の明星と呼ばれた美人で、成績抜群の名誉を担《にな》っていた才媛である。

     ―――――――――――――――

  森栖校長先生
[#地から2字上げ]火星の女 より

 私は嬉しくて嬉しくて仕様がありません。こうして校長先生に復讐する事が出来るのですから……。
 私がホントウに火星の女でしたら、それこそ天の上まで飛び上って喜ぶかも知れません。
 私の死体は多分、誰ともわからない真黒焦になって発見されるでしょう。そうして新聞に大騒ぎをして書かれるでしょう。
 私は、私のお友達に頼みました。
「私がこの手紙を書き始めました二十四日の午後からキッチリ一週間目の三十一日の夕方に、この手紙を速達で校長先生の処へ出して頂戴ね」
 ……と……そうして校長先生が、私の黒焦屍体を御覧になっても……そうしてこの手紙をお読みになっても反省なさらずに、知らん顔をなすったり、平気で誤魔化《ごまか》して行こうとしたりなさる御模様があったら、念のために書いて置きましたほかの一通を警察署へ出して頂きます。そうして、それでもこの事件の真相が世間へ発表されず、校長先生と棒組んで、浅ましい恥知らずな事をしておられる方々が、校長先生と御一緒にこの事件を暗から暗に葬ろうとしてお出でになる御模様がわかりましたならば、そんな関係と新聞記事を封じ込んだ、これと同じモウ一通のコピーを抜からないようにある方面へ廻わして、ズット遅れてから発表して下さるようにお願いして在るのです。私の黒焦屍体に絡《まつ》わる校長先生の責任をどこまでも明らかにする手順がチャント付いているのです。その私のお友達の方は頭のいい、決心の強いお方ですから、この最後の一通を押えられるようなヘマな事は決してなさらないでしょう。
 私は、私の一生涯を、無駄に黒焦にしたくは御座いません。
 私は、校長先生と御一緒に、腐敗《ふはい》、堕落しております現代の自分勝手な、利己主義一点張の男性の方々に、一つの頓服薬《とんぷくやく》として「火星の女の黒焼」を一服ずつ差し上げたいのです。黒焼流行の折柄ですから万更《まんざら》、利《き》き目のない事は御座いますまい。
 ――火星の女の黒焼――
 なんと珍しいお薬では御座いませんか。もしかすると埃及《エジプト》の木乃伊《ミイラ》の一片よりも高価なものでは御座いますまいか。
 召上ったお心持は如何で御座いますか。
 定めし清々なすって、お心の隅から隅までスウッとなすった事で御座いましょう。
 ホホホホホ。ホホホホホホホ……。
 その私……黒焦になった火星の女の復讐を、こうして手伝って下さる私の親友が、どなたかと言うような事は、お考えにならない方がいいでしょう。万一それが御判明《おわかり》になっても、ただビックリなさるばかりで、手の出しようがないので、お困りになるだけの事でしょう。
 その方は、私のような通りがかりの出来事で先生を恨んでお出でになるのでは御座いません。その方は、肺病でお寝みになっておられる実のお母様と、校長先生に誘惑されて無情な放蕩《ほうとう》ばかりしてお出でになる義理のお父様に仕えながら、そんな事情を世間へ洩《も》らさないために、女中も置かないで、黙って楽しそうに立ち働いてお出でになる、世にも珍しい親孝行なお方です。そうして、その方のお母様をソンナ運命に陥れた悪魔を、いつも心探しに探しておられた方です。ですからその方は、私からその悪魔の名前をお聞きになると直ぐに、お母様の讐敵《かたき》を取りたい……義理のお父様の隠れ遊びをお諌《いさ》めになりたいばっかりに、私の頼みを無条件で引き受けて下すったのです。
 言葉を換えて申しますと、そのお母様のお心がお優しいために、その方は校長先生に対して思い切った手段を執る事がお出来にならないのです。ですから私がその方の代りに黒焦になって上げた……みたいな事情《わけ》なのです。おわかりになりまして……私の黒焦の意味が……。
 ……いいえ。校長先生に対する私たちの怨恨《うらみ》は、私たち二人が二人とも黒焦になってしまっても、まだまだ飽き足りないでしょう。
 おわかりになりまして……こうして私の復讐を手伝って下さる方が、どんな方だか……。
 自惚れの強い校長先生は、まだ御自分の知恵を固く信じてお出でになるかも知れません。その方が、そんなにまで深く先生を恨んでお出でになる事なぞ、まだお気付にならないかも知れませんが、それでもこの手紙を御覧になってお出でになるうちには、だんだんとおわかりになるでしょう。
 くり返して申します。校長先生は、ただ黙って黒焦少女の復讐をお受けになるほかはないのです。それが眼に見えぬ正義の制裁と思し召して、黒焦少女の要求通りに、御自分の罪を正直に発表して、社会からコッソリ姿をお消しになるよりほかに方法はありません事を覚悟して頂きます。
 ですけどもこの手紙を書いております私……黒焦少女の正体が何者かと言う事は、もはやお察しになっておりましょう。そうしてあの気の弱い、涙もろい火星の女が、どうしてコンナ恐ろしい無茶な事をするのだろうと思って、慄《ふる》え上ってお出でになるでしょう。

 森栖校長先生……。
 先生は私の恩師です。男性の年長者です。早くから奥様とお子さんをお亡《な》くしになってから熱心な基督《キリスト》教信者となって、教育事業に生涯を捧げると言っておられる立派なお方です。そうして世間から教育家の模範と言われて、度々表彰を受けてお出でになるステキに偉いお方なのです。
 そのようなお方に、たといどのような迫害を受けましょうとも、復讐をしようなぞとたくらむのは、正しい事でないと思う方があるかも知れませぬ。
 けれども森栖先生……。
 私は先生がお名付けになった通り、火星の女です。普通の女とは違います。ですから人間世界の男性の横暴……男性にだけ許されている悪徳に、一つ思い切った反逆をして見せて世間の人をビックリさせてみたくなったのです。女性のための五・一五事件を起して、この世界が男性のためばかりの世界でない事を思い知らせてみたくなったのです。
 ことに先生のような男性の悪徳の代表者みたいな方が、模範教育家として、千人に近い若い女性を指導して行かれると言うような事は、日本に生まれた私に取ってトテモ堪えられない事なのです。
 私がドンナ生い立ちの、どんな思想を持った女だったか、校長先生は御存じでしたか知ら……。校長先生のお手がちょっと私に触れましただけで、間もなく黒焦になって校長先生を呪咀《のろ》わなければならなくなった私の、深刻な運命のお話をお聞きになりましても、校長先生は真実《ほんとう》に心からビックリなさいますか知ら。御自分たち……男性にだけ御都合のいい道徳観念と、そんなような常識ばかりを発達さしておられる日本の男性の方に、火星の女の使命が、おわかりになりますか知ら……。
 でも私は説明しなければなりません。さもないと私の致しました事を、つまらない感情の爆発から来た、一時的のお芝居ぐらいに思って軽蔑なさるといけませんから……。私は、私の黒焦死体の呪咀《のろい》がどんなに真剣な気持のものですか……私たちの怨《うら》みの内容が、どんなに深刻な、残虐《ざんぎゃく》無道な校長先生のなさり方に対する反抗であるかを、この手紙で証明しなければなりません。
 火星の女の名誉のために……。
 そうして黒焦少女の誓いのために……。

 私は小さい時からノッポと呼ばれておりました。今の母が生みました腹違いの妹が二人ありますが、二人とも普通の背恰好の女ですのに、どうして私ばかりがコンナ身体に生まれ付きましたのか不思議でなりません。もっとも実父の話によりますと、私が生まれました当時は六百|匁《め》あるかなしの、普通よりもズット小さな、月足らずみたような虚弱な赤ん坊だったと申しますが、それが五ツ六ツの頃からグングン伸び始めました。初めて小学校へ入りました時にチャプリン鬚《ひげ》の受持の先生が私を見て思わず、
「ホオ――。大きいなあア――」
 と笑われましたが、私は子供ながらそのチャプリン鬚の先生の笑い顔に一種の恥辱を感じました。私が、私自身に就いて恥辱を感じましたのはこの時が初めてだったと思います。
 私はそれから後、いろいろな意味で、こうした恥辱を受け続けて参りました。
 その小学校の校長
前へ 次へ
全23ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング