状に炭化して骨格に絡《から》み付き、凄惨《せいさん》なる状況を呈していたと言う。尚同校長森栖礼造氏は熱心なる基督《キリスト》教信者で、教育事業に生涯を捧ぐるため独身生活を続け、同校創立以来、三十年の間校長の重責に任じて一度の失態もなく、表彰状、位記、勲章等を受領する事枚挙に遑《いとま》あらず、全県下に於ける模範的の名校長として令名ある人物にして、事件当日は市内三番町の下宿に在ったが、急を聞いて逸早《いちはや》く現場に馳付け、御聖影を取出し、教職員を指揮して重要書類を保護させ、防火に尽力せしめた沈着勇敢な態度は人々の賞讃する処となったが、事後、三番町の下宿に謹慎《きんしん》して何人にも面会せず、怏々《おうおう》[#「怏々」は底本では「快々」]として窶《やつ》れ果てているので、謹厳小心な同校長の平生を知っている人々は皆、その態度に同情している。右につき去る三月二十八日、教務打合せのため、同校長を訪問した同校古参女教員、虎間《とらま》トラ子女史は同校長の言として左の如き消息を洩《も》らしたと言う。
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目下その筋で取調中の事ゆえ、差出た事は言われぬが、自分としてはコンナ不思議な事はないと思う。同廃屋は校内に在るが、午後六時以後は宿直の職員と小使の老夫婦以外には校門の出入を厳重に禁止している。これは自分が特に注意している処であるが、何者が侵入して来てあのような事を仕出かしたものであろう。自分や学校に怨《うら》みを抱くような者の心当りもない。むろん学校関係の者とも思われぬので実に心外千万な奇怪事と言うよりほかはない。万事は当局の調査によって判明する事と思うが、とにもかくにもかような怪事件が校内に於て発生した以上、校内の取締に就いて何処かに遺漏《いろう》が在《あ》ったものと考えなければならぬ。その責任は当然自分に在るのだからかように謹慎しているのだ。云々《うんぬん》。

   森栖校長失踪[#「森栖校長失踪」は2段階大きな文字]
       消え失せた遺書と不可[#「消え失せた遺書と不可」は1段階大きな文字]
       思議な女文字の手紙[#「思議な女文字の手紙」は1段階大きな文字]

 去る三月二十六日、県立高女校内に発生したミス黒焦事件以来、謹慎の意を表して三番町の下宿に引籠っていた名校長、森栖礼造氏は、新生徒入学式の前日なる昨一日夕方頃より突然に失踪《しっそう》した事が、校務打合せのため同下宿を訪問した同校女教諭虎間トラ子女史によって発見された。既報の如く森栖校長はミス黒焦事件以来痛く神経を悩ましていたものの如く三番町の下宿に引籠り、鬚《ひげ》蓬々《ほうほう》として顔色|憔悴《しょうすい》していたが、事件発生後一週間目に当る去る三十一日夜、何処《いずこ》よりか一通の女文字の手紙が同氏宛配達されて以来、何故《なにゆえ》か精神に異状を来たしたものらしく、同下宿の女将《おかみ》渡部スミ子の許に来り、無言のまま涙を流して頻《しき》りに叩頭し、又は二階より往来へ向け放尿しつつ大笑するなど、些《すこ》しも落着かず、夜半に大声を揚げて怒号し、彼奴《あいつ》だ。彼奴だ。黒焦は彼奴だ。火星だ火星だ。悪魔だ悪魔だ。などと取止めもなき事を口走り、女将スミ子を驚かした由《よし》で、その翌日の三月一日は疲労のためか終日|臥床《がしょう》して一食も摂《と》らず。同夜十時頃、前記虎間トラ子教諭が訪問した際も、依然として就床しいるものと思い、女将スミ子が起しに行きたるに夜具の中は藻抜《もぬけ》の空《から》となり、枕元に破封されたる長文の女文字の手紙と並べて虎間女史に宛てたる遺書が置かれたるを発見したるより大騒ぎとなり、県当局、警察当局、同校職員総動員の下に同校長の行方捜索を開始したが、今朝に到るまで同校長の所在は不明で、ただ目下、同校内玄関前に建設の予定にて、東都彫塑、朝倉星雲氏の手にて製作中と伝えられおりし同校長の頌徳寿像《しょうとくじゅぞう》の、塵埃《ちり》と青錆とに包まれたる青銅胸像が、白布に包まれたるまま同下宿、森栖氏専用の押入中より転がり出で、人々を驚かしたのみである。因《ちなみ》に、同校長の枕頭に在った二通の手紙はその後、混雑に紛れて何人にか持去られたるものの如く、女将スミ子、及、虎間女教諭もその行方を知らず。二人とも内容を関知せざる由にて、前記銅像の件と共に森栖氏の失踪に絡《から》まる不可思議の出来事として、関係者の注意を惹《ひ》いている。のみならず前記森栖氏の口走りたる言葉より推《お》して、右二通の手紙は或はミス黒焦事件の秘密を暴露する有力なる参考材料なりしやも計り難く、これを衆人注視の中に持去りたる神変不思議の人物こそ、ミス黒焦事件の有力なる嫌疑者に非ずやとの疑い、関係者間に漸次《ぜんじ》高まりつつ在り。万事は森栖校長の行方と共に判明すべしとて、その方の捜索に全力を挙げている模様である。尚同校長を見知りおる駅員の言に依れば、同校長らしき鬚蓬々たる無帽の人物、大阪までの切符を買いて終列車に乗込みたる形跡ありとの事にて、その方面にも手配が行われている由。

   県立高女メチャメチャ[#「県立高女メチャメチャ」は2段階大きな文字]
     森栖校長発狂![#「森栖校長発狂!」は2段階大きな文字]
       虎間女教諭縊死![#「虎間女教諭縊死!」は1段階大きな文字]
      川村書記大金拐帯![#「川村書記大金拐帯!」は2段階大きな文字]
        黒焦事件の余波か?[#「黒焦事件の余波か?」は1段階大きな文字]

 【大阪電話】 昨報失踪したる県立高等女学校長森栖礼造氏は失踪後、大阪に向いたる形跡ある旨、本紙の逸早《いちはや》く報道したる処なるが果然、同校長は昨三日早朝、大阪市北区中之島付近の往来に泥塗れの乱れたるフロック姿を現わし、出会う人毎に「火星の女は知りませんか」「ミス黒焦が来てはおりませんか」「甘川歌枝は何処におりますか」「何もかも皆嘘です」「事実無根の中傷です中傷です」なぞと、あらぬ事のみ口走りおりたるを一先ず中之島署に保護し、当市警察に照会し来たるを以て、開校間際の多忙を極めおりし教頭、小早川《こばやかわ》教諭は、十一時の列車にて取りあえず大阪に急行した。然《しか》るに同教諭出発後、教頭次席、山口教諭指揮の下に引続き開校準備に忙殺されいるうち、同校職員便所に於て、同校古参女教諭、虎間トラ子(四十二)が縊死《いし》しおる事が、掃除に行きし小使に発見されて、一同を狼狽《ろうばい》させおるうち、同じく開校準備のため出勤しおりし同校書記にして、森栖校長と共に三十年来、同校の名物となりおりし傴僂《せむし》男、川村|英明《ひであき》(五十一)が同様に、いつの間にか姿を消している事が、出張の警官により気付かれたので、念のため取調べてみると、意外にも同校の金庫中に保管して在った森栖校長の銅像建設費五千余円、及、校友会費八百二十円の通帳が紛失しおり、預金先、勧業銀行に問合わせたる処、正午近き頃、川村書記が同銀行に来り、右預金の殆《ほとん》ど全額を引出し、愴惶《そうこう》たる態度で立去りたる旨判明、なお市外十軒屋に居住しおりし同人妻ハル(四十七)も家財を遺棄し、旅装を整え、相携《あいたずさ》えて行方を晦《くら》ましたる形跡ある旨、次から次に判明したるより、騒ぎは一層輪に輪をかけて大きくなり、同校全職員の訊問、取調が開始され、同校の授業開始は当分困難と認めらるる状態に立到った。因に縊死した虎間女教諭と、逃亡した川村書記とは平生より、森栖校長を神の如く崇拝しており、二人とも同校長の行方を最も真剣に気にかけていた由であるから、この際、最も喜んで安心すべきであるのに、同校長の行方判明と聞くや否や、互いにかかる矛盾したる行動に出でたことは、重ね重ねの奇怪事と言うべく、何等か裏面に重大なる秘密の伏在せるを想像し得べき理由がある。なお発狂せる森栖校長が大阪にて口走りたる甘川歌枝という女性は、同校の今年度卒業生にして、運動競技の名手であったが、かねてより「火星さん」という綽名《あだな》あり。卒業後間もなく大阪の某新聞社に就職しおりたるものにて、森栖校長は発狂後、同女の行方を尋ねつつ同地方に行きたるものらしく、従ってミス黒焦事件と甘川歌枝とは、何等か密接の関係あるやも計り難く、目下当局に於ても慎重に調査中である。

   森栖校長の帽子[#「森栖校長の帽子」は2段階大きな文字]
   十字架上に[#「十字架上に」は2段階大きな文字]
     持主不明の花簪と共に市内[#「持主不明の花簪と共に市内」は1段階大きな文字]
     天主教会にて発見さる[#「天主教会にて発見さる」は1段階大きな文字]

       前廂に残る疑問の歯型

 県立高等女学校は既報の如く、去る三月二十六日の怪火以来、ミス黒焦、校長の失踪、同発狂、虎間女教諭の縊死《いし》、川村書記の大金|拐帯《かいたい》等の怪事件を連続的に惹起し、まだ怪火の正体さえ判明せざるうちに、同校と県、警察当局とを未曾有《みぞう》の昏迷の渦巻に巻込んでいるが、更に又、最近に前記森栖校長の信仰|措《お》かざりし天主教会内にて、意想外の怪事件を派生し、関係者一同を層、一層の昏迷に陥《おとしい》れている。今《こん》五日午前十時頃、市内海岸通二丁目四十一番地四角、天主教会にては日曜日の事とて、平常の如く信者の参集を待ち、祈祷会を開催すべく、礼拝堂正面の祭壇の扉を開きたるに、正面、祭壇の中央に安置されたる銀の十字架上に、見慣れぬ黒の山高帽と、赤き小米桜に銀のビラビラを垂らしたる花簪《はなかんざし》が引っかけ在るを発見し、大いに驚きて取卸し検査したるに、該山高帽子の内側の署名により、同教会の篤信者、森栖校長の所持品なる事判明。尚、花簪の所有者は目下の処不明なるも、その儘、山高帽子と共に付近派出所を経て警察署に届出たので、警察にては緊張しおりし折柄とて棄置難しとなし、時を移さず同教会に出張し、参集者の出入を禁じて、厳重なる調査を遂げたるに、同教会、礼拝堂の内部に怪しむべき点一※[#小書き平仮名か、129−5]所もなく、同日、同礼拝堂に一番最初に(九時頃)入来りたる信者某女も、最初より祭壇の扉に接近したる者を認めなかったと言うので、手を空しくして引上げた。然るに右山高帽を警察署に持帰り、詳細に亙《わた》りて調査したるに、前廂《まえびさし》にシッカリと噛締めたる門歯と犬歯の痕跡あり。しかも、それは極めて強健なる少年の歯型なる事が、専門家の意見により確定したので、又も新しいセンセーションを巻起すこととなった。すなわち推定されたる教会侵入の怪少年が、果して県立高女校の怪火事件以後の、各種の奇怪事と連鎖的な関係を持っているものとすれば、虎間女教諭の縊死、川村|傴僂《せむし》書記の逃亡以来、右二人を前記各種事件の黒幕的人物に非ずやと疑いおりし人々も、ここに於て推定の根拠を失いたる訳にて、そのいずれが真なるやを考察するは全然不可能なるものの如く、関係当事者一同は又もや五里霧中に放り出された状態に陥っている。

   意外! 黒焦犯人は[#「意外! 黒焦犯人は」は2段階大きな文字]
    県視学の令嬢?[#「県視学の令嬢?」は2段階大きな文字]
       母と共に行方を晦ます[#「母と共に行方を晦ます」は1段階大きな文字]
       父視学官は引責覚悟

 昨報、市内海岸通、天主教会内の帽子|花簪《はなかんざし》事件以来、警察当局にては既報ミス黒焦事件に対する有力なる探査のヒントを得たるらしく、当時、最初に同教会内に入来りたる某女こと、殿宮《とのみや》アイ子(十九)という少女を同教会内別室に伴い、厳重なる取調を行いたる模様なるが、右取調続行の都合上、同午後三時頃、前記アイ子に一応帰宅を許したるに、同女は大胆にも厳重なる監視の目を潜《くぐ》りつつ、重病に臥《ふ》しおりたる母親を伴い、一通の遺書ようのものを同女の父、殿宮愛四郎氏宛に残して、何処《いずく》へか姿を晦《くら》ましてしまった
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